“幻の焼き物” が町おこしの要⁉︎ 江戸時代後期に、たった数年だけ存在した“臼杵焼” の現代復活にかけた想いとは

前略、200年の時を経て、復活を遂げた “幻の焼き物” に触れてみたいアナタへ

今から遡ること200年。江戸時代後期、豊後国臼杵藩(大分県臼杵市)に、数年間だけ存在した「臼杵焼」をご存知でしょうか。

 

臼杵焼は、稲葉家十代目藩主・稲葉弘通が隠居した後の1801年に、御用窯として作られ、島原(長崎)小石原(福岡)小峰(宮崎)から職人を迎え磁器と陶器を焼いたのがはじまりと言われています。しかし、臼杵焼の繁栄はそう長くは続かず、わずか数年で途絶えてしまいました。

 

そんな “幻の焼き物” を現代へと復活させ、町おこしに活用しようと奮起するUSUKIYAKI研究所 代表取締役宇佐美 裕之氏に、臼杵焼復活プロジェクトにかける想いを伺いました。

 

宇佐美 裕之(Hiroyuki Usami)氏 USUKIYAKI研究所 代表取締役、陶芸家、料理人 / 大分県臼杵市出身。江戸時代後期に途絶えた臼杵焼を今に復活させ、皿山や焼物の歴史を伝えつつ、これから新しい歴史を紡ぐ「現代版」臼杵焼を広めていくため、USUKIYAKI研究所を立ち上げ、活動の幅を広げている。

 

臼杵焼復活プロジェクトへの想い「みんなで臼杵を盛り上げたい」

 

今回の舞台、大分県臼杵市といえば、平安時代後期から鎌倉時代にかけて彫刻されたという「臼杵石仏」が有名。自然の岩壁などに彫刻された61体の石仏全てが国宝に指定されており、いにしえの佇まいを今に紡ぐ、歴史情緒あふれる美しい町といわれています。

 

 

そんな地で生まれた臼杵焼の起源は、江戸時代後期まで遡ります。

 

 

「今から200年ほど前、臼杵藩に稲葉のお殿様がいました。その方が藩の御用窯として開かせたのが “臼杵焼” なんですが、わずか数年で、臼杵焼は途絶えてしまうんです。その臼杵焼を復興させようと、地元臼杵市で陶芸仲間を募り、2015年にプロジェクトを立ち上げました。」(宇佐美氏)

 

学生時代から大阪で陶器を学んでいた宇佐美氏は、家業である「石仏観光センター・郷膳うさ味」を継ぐために臼杵市へUターン。臼杵市の観光をPRするために、自分の得意なこと(陶芸)を活かせないかと、“臼杵焼” を地域ブランドとして復活させるプロジェクトを立ち上げたんだそう。

 

薄く伸ばした素地を石膏の型に被せて手で押し付け、輪花や花弁などに型取ったり、型に彫り込んだ模様をうつわに写し取る成形技法「型打ち」の様子。指で一つ一つ模様に沿わせながら形をつくっていく。

 

 

宇佐美氏は、立ち上げ当時を振り返りながら「 “作家として、いい作品(臼杵焼)を作ろう!” と意気込んでいた訳ではなく、“地域全体で臼杵市を盛り上げていこう!そのためにみんなでいい臼杵焼を作ろう!” という想いがありました。」と優しく語ります。

 

復活への難しい道のり。真似ではない「現代との融合」への葛藤

 

周りをライバルではなく、仲間としていつの間にか巻き込んでいく力がある宇佐美氏。とはいえ、“復活” という重圧に葛藤することも多々あったと言います。

 

復活ということは、ただ真似をすればいいというものではないと思っています。現代に復活させるからこそ、今のスタイルやニーズにマッチしないといけないですし、臼杵市という場所で作る意味を考えなければならない。さらに、そもそも臼杵焼に関する資料が全然残っていなかったので、本当に試行錯誤の連続でした。」(宇佐美氏)

 

数年間しか世の中に存在しなかった焼き物であったため、臼杵焼に関する資料がほとんど残っておらず、手に入った僅かな資料や地元に残されていた臼杵焼を借りて、試行錯誤を続けたという宇佐美氏。

 

そんな中で行きついた臼杵焼復活への答えは、長年培われてきた臼杵市の歴史の中にあったといいます。

 

臼杵焼には陶器と磁器の二種類があり、現在別々の工房で生産される、陶器用の粘土は 当時の窯跡が残る末広地区にある瓦工場が保有する瓦粘土を器物にも使えるように精製して使用している。磁器用の磁石は今も昔も大分では採れず、昔は天草地方から運ばれてきたとされる。現在では作るものに合わせいろいろな地域の粘土をブレンドして使用している。

 

 

「臼杵藩は5万国の小さな藩だったので、あまり裕福な藩ではなかったようです。その素質は今でも臼杵市の精神に残っていて、“質素倹約” というか、華美なものを好まないような雰囲気があるんです。」(宇佐美氏)

 

そこから、“臼杵の質素倹約な精神” のイメージを膨らませ、今のシンプルで美しい臼杵焼のスタイルに行きついたと宇佐美氏は話します。

 

「私自身、元々陶器の作家だったのですが、島原の陶工が作る白磁の輪花と臼杵の精神にヒントを得て、現代版臼杵焼のイメージを確立しました。」(宇佐美氏)

 

 

愛され、応援されるからこそ、広がり続ける臼杵焼の可能性

 

プロジェクト開始直後は、「世の中に受け入れられるか」といった不安を抱きながらも、思っていた以上に多くの人たちから応援をいただいたと言います。

 

臼杵在住の方をはじめ、すでに臼杵市を出られて東京や海外で活躍する方々からも臼杵焼を応援したいと連絡をいただきました。一番最初に協力してくださったのは、アメリカと日本で二拠点生活をされている方だったんですが、なんと稲葉藩の末裔の方だったんです。“臼杵焼は私の先祖様が作った焼き物だから協力するわ!” って。そんなことがあるのかと思ってびっくりしましたね。」(宇佐美氏)

 

その方とは今でも交流があり、実際に海外の販売先と臼杵焼を繋いでもらったこともあるのだとか。

 

「その方だけでなく、本当にいろんな方にサポートしていただきました。みなさん故郷に愛着がおありなんでしょうね。偶然ではありますが、臼杵焼に “臼杵” という地名が入っていたおかげで、たくさんの人に愛していただけたんだと思います。」と宇佐美氏は目を細める。

 

 

さらにここから、臼杵焼にとって、嬉しい偶然が重なっていったと言います。

 

「プロジェクトの初年度に、臼杵市に “乾杯条例” ができたんですよ。その時に、臼杵市の酒屋さんから 乾杯条例の盃を臼杵焼で作ってほしい と連絡があったんです。元々、臼杵市の町おこしのためにと始めた活動だったので、“臼杵を盛り上げるために頑張らなくては!” とたくさんの盃を作りました。たぶん臼杵市内の飲食店全部に作ったと思います。大変だったけど、嬉しかったなあ。」(宇佐美氏)

 

多くの人に愛されながら軌道に乗っていった臼杵焼は、器だけに留まらず、多くのリクエストからその可能性を広げ、今では100を超える種類があるといいます。

 

「コーヒーカップが好きで、毎年作るんです。」という宇佐美さん。自分の好きなものを楽しんで作れるのは、職人の醍醐味の一つかもしれませんね。

 

 

「皆さんの要望に応えて作っていたら、トータル100種類くらいになってしまって。壁アートやランプシェード、着物の帯留めなども作りましたね。今は種類を増やしすぎてしまったんで、絞っていくことを考えないとと、思っているんですが、でもやっぱり “こんなのを作って!” ってリクエストされると嬉しくなっちゃって、ついつい作ってしまうんですよ。」(宇佐美氏)

 

 

焼き物の仕事を大分県に!未経験者でも働ける、枠に捉われない工夫とは

 

九州には有田焼(佐賀県)、波佐見焼(長崎県)など、たくさんの焼き物の文化があります。しかしながら、大分県には大きな窯場は1つしかなく、大分県で作陶の仕事にしたいと考える人たちにとって、なかなかチャンスがないのが現状だと宇佐美氏は言います。

 

「焼き物の仕事をしたいと考えている人がいても、大分にはそういった場がないから、働けないじゃないですか。だから、臼杵焼づくりを頑張りたい!という気持ちに加えて、大分に焼き物の仕事を作りたい!っていう想いもあったんです。」(宇佐美氏)

 

その願いは徐々に叶いつつあり、今では非常勤の方を含めて6名ほどがUSUKIYAKI研究所で働いています。しかもそのほとんどが、USUKIYAKI研究所で初めて作陶された方だとか。

 

 

「普通だったら、ろくろを回すのにも何年も修行がいるんですが、私たちが行っている型打ちという技法であれば、それぞれの作業を分業することができるんです。技術習得に何年もかかる作業であっても、分業することで、繰り返す回数を増やし、習得期間を短縮できるんじゃないかなと思っています。」(宇佐美氏)

 

それぞれの作業を分断することで、未経験者でも働きやすい工夫が施されているUSUKIYAKI研究所。そこには宇佐美氏のあたたかい人柄が滲み出ます。

 

「私自身、一人で淡々と作るより、みんなで作りたいんですよね。だってその方が楽しいじゃないですか。だから大阪から大分に帰ってきたときも、焼き物の仲間を増やしたかった。プロジェクトを始めたきっかけも、みんなでつくる楽しさに対する想いがあったんだと思います。」(宇佐美氏)

 

 

そんなUSUKIYAKI研究所の特徴は分業スタイルだけでなく、作品の見せ方への工夫にも現れます。特に目を引くのが、圧倒的なセンスでつい見入ってしまう、Instagram。フォロワー数1万人越えのInstagramは、海外から購入に対する問い合わせがあったり、海外の有名インスタグラマーの方からコラボ依頼を受けたりすることもあるといいます。そんなInstagramを彩る美しい臼杵焼の写真も、宇佐美氏自身が撮影しているのだそう。

 

「基本的には私が撮影していますが、最近は撮ってもらうこともありますね。自分で撮る写真に飽きちゃって(笑)。でもそうやって他の人が撮影できたりするのも、複数人で作品に携われているメリットだなって感じています。一人でつくっていたら、自分の制作中の写真は撮れないですけど、複数人の体制だと、誰かに撮ってもらえる、つまりはInstagramのバリエーションも増えてくる。これも複数人でやっている強みだと思いますね。」(宇佐美氏)

 

 

「みんなでやるから楽しい!」が、前へ進み続ける原動力に。

 

今後の臼杵焼の展開は、海外に臼杵焼を持っていくことだと意気込む宇佐美氏。

 

「以前、臼杵焼をフランスへ持っていった際に感じたのが、“日本の焼き物はレベルが高い!” ということなんです。さらに海外の焼き物は、物価の関係でとても高額で取引されています。だからこそ、日本の焼き物を海外へもっていく価値があるなと感じたんです。今USUKIYAKI研究所でも海外販売を行っていますが、言語の壁もあって本当に大変で。でも、地方から直接海外へ売る仕組みづくりが出来れば、きっと日本の焼き物界にとって活路が見出せると思うんです。だからこそ、私たちが海外販売のモデルになれたらいいなと思っています。」(宇佐美氏)

 

臼杵焼は手作りでつくられるため、同じ型からつくられたお皿でも、1点1点表情に違いが生まれる。この手作りの温かみが、臼杵焼の魅力の一つ。

 

 

復活からわずか6年。たくさんの人を巻き込み、想いを共有し合いながら、前へと前へと進み続ける宇佐美氏。最後に、その原動力をお伺いしました。

 

「やっぱり、焼き物をつくるのが楽しいからじゃないですかね。新しいことをするのが好きなんですよ。焼き物を取り巻く環境自体は少しずつ悪くなってきてるって言われていますけど、だからこそ、新しいことを取り込んでいくのがいいし、みんなで分業して、楽しいって思えることをするのが大事だと思いますね。シンプルですよ。」と宇佐美氏は笑う。

  

200年前に数年だけこの世に存在した幻の焼き物・臼杵焼。その復活に込められた宇佐美氏の想いは、作陶だけに留まらず、町おこしや作陶家の育成、そして海外進出へと幅広い。

「人の手のぬくもりが伝わる作品が好きなんです」と語る宇佐美氏の臼杵焼復活プロジェクトは、宇佐美氏の人柄がにじみでた、温かい作品だからこそ、たくさんの人たちを魅了し続けているに違いありません。

  

筆者プロフィール:

芳村百里香 YURIKA YOSHIMURA
奈良県生駒郡出身。京都の大学に通う中で知った”本場高知のよさこい”に魅せられ、2012年に高知市に“よさこい移住”としてIターン。2015年には高知市から「高知市よさこい移住応援隊」として委嘱を受ける。単身地方移住の経験から地方創生や地方コミュニティに関心を寄せている。高知愛を綴るべく「高知移住ブログ」を発信しながらライターとしても活動中。

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