前略、地域の子供達に「常滑焼」の魅力を伝え続ける、地元愛溢れる職人に出逢いたいアナタへ
「セントレア」の愛称で知られる中部国際空港がある愛知県常滑市で、1,000年以上作り続けられ、日本六古窯の一つにも数えられる「常滑焼」という焼き物をご存知でしょうか。
「常滑焼」は、平安時代末期より作り始められたとされ、当時の焼き物は古常滑(ことこなめ)と呼ばれ、壺・大甕など大型な焼き物が特長となっている。江戸時代初期は、真焼け(まやけ)の陶芸品(高温で焼き締めた焼き物)や排水施設に使用される土管が作られ、江戸時代後期になると煎茶の流行に伴い、現代でも「常滑焼」の代表的な商品である朱泥急須が作り始められる。
「常滑焼」の急須が、現在に至るまで全国的に人気が高い理由のひとつには、朱泥急須とお茶の相性がとても良いことにある。朱泥急須の原料である朱泥土は、多くの鉄分を含む原土と弁柄という酸化鉄を混ぜ込んだ陶土で構成され、窯で焼き上げることで鉄分が酸化し、朱色に発色する。この鉄分が、お茶の成分であるタンニンと反応することにより、お茶の味をまろやかにしている。
今回取材したのは、「常滑焼」の産地・愛知県常滑市で、陶器の原材料である土が持つ魅力を最大限に活かしながら子供や女性に人気のある器づくりを展開している窯元『山源陶苑』の3代目・鯉江優次氏。
「常滑焼」の魅力が詰まったお店『TOKONAME STORE』を2015年にオープンした鯉江氏に、作り手として歩み始めた時期から日々大切にしている「伝えること」の意味についてお聞きしました。
『山源陶苑』の創業は1967年、鯉江氏の祖父の代から受け継がれてきた窯元。
3代目となる鯉江氏のファーストキャリアは、和食器を取り扱う総合商社。両親から後を継いでくれと頼まれ入った器業界ではなく、鯉江氏自らが作り手として将来必要となるスキルを身につけるため自ら選んだ業界だったという。
「大学3年生の時に、当時の常滑焼産地にある卸販売(作り手と買い手の間に仲介業者が入り商品を販売する方式)の形態は、そのうち作り手自らが直接お客様に販売する時代に変わるだろうと、ぼんやりですが考えていました。だから、就職先は作り手の勉強ではなく、売り手の勉強をしようと思い、和食器を取り扱う商社に入社して、9年間程お世話になりました」(鯉江氏)
その後、鯉江氏は商社で順調なキャリアを築いていたが、ご両親が立て続けに東京まで訪ねてきたことをきっかけに、常滑に戻ることを決意することになった。
「ある日、親父が東京に来て、ちょっと実家に帰ってくることを考えてくれないか、と言われました。正式に実家に戻って欲しいと言われたのは、その時がはじめてですね。もうちょっと東京で働きたいと思っていましたが、親父が上京してきた3ヶ月後にお袋も訪ねに来て、真剣に考えて欲しい(常滑に帰ること)、と言われてその1年後に会社を辞めました。」(鯉江氏)
商社で卸販売の経験を積んだ29歳の鯉江氏が地元に戻り『山源陶苑』に入社した際、工房でつくる技術を習得する上で大切にしたことは、小さい頃から教えられてきた「ステメ」だったという。
「親父に聞けば教えてくれるけど、やはり昔の人だから、背中を見て覚えろという感じでした。いわゆる「ステメ」と言われるような感じです。「ステメ」というのは、教えてもらうのではなく、自分で(技術を)盗めということで、小さい頃からよく言われていました。なので、本当に親父や他の職人さん達がやっていることを見ながら、自分ならどうやってできるだろう、と考えながら過ごしていました」(鯉江氏)
産地の卸販売形態に一石を投じた『TOKONAME STORE』
『山源陶苑』で働き始めた際、産地で変わらず続いている卸販売という販売方式に頭を悩ませていたそうだ。
「当時、工房でつくった商品を販売する場合、地元の問屋さんへ卸販売をするしかなかったんです。なので、自分でコストをかけずにお客様に直接商品を届ける方法がなにかできないかと、試行錯誤をしていました」(鯉江氏)
作り手として良いモノをお客様に直接届けるため、地元の問屋との間で議論することを忘れなかったという。
「問屋が偉い、作り手が下とかではなく、同じ立ち位置で一緒にやっていくべき時代だと思っています。作り手には、こういう意見があるんだよ、というのをちゃんと伝えれば良い。まぁ、親父とはそのことでよく喧嘩をしましたけどね」(鯉江氏)
鯉江氏は、今でこそ当たり前になりつつあるが、作り手がつくるモノを自由に発信・販売できない産地の卸販売という販売方式に、当時歯がゆい想いを抱えていた。そこで、大学時代から内に秘めていた「作り手が自ら売る」ことを実現させるべく、2015年に『TOKONAME STORE』をオープンさせた。
我が道を突き進む鯉江氏に、産地の職人さんから反発がなかったのか伺った。
「お店を出した時、周りはめちゃくちゃ喜んでくれて、「よくぞやってくれた!」と僕のおじいちゃんの世代の方から言われました。ずっと産地の卸販売という構造の中で、我慢してやってきて、表現しても表現しきれないことが多かった。そこに、みんなモヤモヤした部分があり、それが晴れたような感じで「よくやった」と言ってくれたことが嬉しかった」(鯉江氏)
『TOKONAME STORE』で販売される「常滑焼」は、朱色の焼物ではなく、淡いパステルカラーのTOKONAMEシリーズが主体となっている。常滑焼の伝統的な表現を変えた経緯を教えてもらいました。
「常滑を含めて多くの焼き物産地が、バブル時代から世の中で売れているモノを真似てつくることが良くあるんですよ。しかし、各産地ならではの良さがそれぞれあると思っていて、その時、常滑を俯瞰してみると、常滑の良さって実は素材となる土にあると思うんです」(鯉江氏)
実は、可愛らしいパステルカラーのTOKONAMEシリーズも、独自の新たな技術ではなく、古くから常滑で用いられていた土と既存の顔料を混ぜる手法を活かしたにすぎないという。
「昔から常滑は土に何かを入れるということをやっているので、新しいことをやったというわけではないですね。潜在的にすごく良い資源があったり、良い技術を持っていたら、どのように活かすのか、フックがどこにあるのか、というのを見つけるだけだから、決して奇をてらったわけではないですね」(鯉江氏)
1,000年以上の時代を通して、時代、時代の消費者の生活スタイルに合わせて進化を続けている「常滑焼」。作り手として、未来に何を残し、何を更新していきたいのか鯉江氏に伺った。
「今後どうなるかというのは、正直僕もわからないですが、常滑焼は時代に合ったものに変化し続けてきているので、1,000年以上も歴史があると思うんですよ。なので、100、200、300年後でも急須は、絶対生き続けていると思うけど、その時に合わせた変化をし続けることは、産地のアイデンティティとして持っているんだろうなと思います」(鯉江氏)
売り手としても、作り手としても「常滑焼」を伝え続ける鯉江氏を突き動かす原動力は、多くの人に「常滑焼」を知ってもらいたいという想いがあるそうだ。
「常滑市の人は、常滑焼のことを知っていると思っているのですが、全然知られてないんですよ。だからこそ作り手が言葉を発することが必要だと思って、講演等を通じて伝えること、知ってもらうことが必要だと思うんです」(鯉江氏)
現在、残りの人生を懸けて、鯉江氏が取り組む地域の子供達に「常滑焼」を知ってもらう「お茶碗プロジェクト」を教えてもらった。
「お茶碗プロジェクトでは、子供たちにお茶碗を作ってもらい、その器で学校給食を食べてもらうんですよ。そうすると、講演の時に見る子供達の笑顔が全然違うんです。今では”お茶碗おじさん”と呼ばれていて、それは結構嬉しく思っています。伝えることは言葉だけではなく、体験を通じて、子供に「常滑焼」を伝えることが多分一番の近道だと思います」(鯉江氏)
お茶碗プロジェクトは、約5年間をかけて1,700人位の小学生に、無償でお茶碗をつくる機会を作り出してきたという。そして、鯉江氏の人生には、常滑にある小学校の学校給食の器を「常滑焼」に変えるという目標があるそうだ。
「学校給食の器を常滑焼に変えたいというのが人生の最終目標です。そのために、2021年7月に、『TOKONAME STORE』で写真展をやるつもりで、そこに、どういう経緯で、この活動を始めたのかも添えたいと思います。最終的には、行政を動かしたい。いつ自分が亡くなるかもしれないので、意志だけは残して伝えておきたいと思っているんですよ。行政を動かすためにも、行動を起こさないといけないですね」(鯉江氏)
では、最後に、ここまで読んで下さった読者の方にメッセージをお願いします!
「産地に来て欲しい!土地の空気感や景色とか、産地の人、職人に会ってもらいたい。リアルがやっぱり一番なので、街並みも面白いですし、セントレア(中部国際空港)が近いので外国の方もダイレクトに入ってこれますし!」(鯉江氏)
愛知・名古屋駅から電車で約50分、中部国際空港から電車で約5分の距離にある常滑。
常滑駅から徒歩で約10分程歩くと、倉庫ほどの大きさを持つ立派な施設・『TOKONAME STORE』を見つけることができる。そして、時間が許す限り、施設と街から日本六古窯・常滑を堪能して欲しい。