前略、世を忍ぶようにひっそりと在るここ三河内で、400年間変わることなく受け継がれてきた磁器の美に触れたいアナタへ
有田からは、南西に佐世保線で1駅。ここ長崎県佐世保市三川内町は、三方を山で囲まれた逆三角形の集落の中に窯の煙突が散在し、ひっそりと静かにあるその佇まいは、まるで時空が何十年も前にタイムスリップしたようにも感じる。この地で、先祖代々受け継がれてきた三河内焼の伝統を守りながらも、新しいものづくりに挑戦し続けているのが、平戸洸祥団右ヱ門窯(ひらどこうしょうだんうえもんがま)十八代目当主の中里太陽さんだ。
「僕らは、代々ここの場所で400年間仕事をしてきています。伝統的なものづくりに基づいて制作はしているのですが、時代によって求められるものが変わってきています。例えば、マグカップのように取っ手がついているものは、昔はありませんでしたが、今は作っています。それでは、伝統技術とは一体何なんだということになるのですが、産地としては、白地に青い藍色で絵付けをしたもの、繊細優美な細工のものとなる。その技術というものは、私が作ったものではなく、先祖からいただいたものという考えでずっと作っているので、技術自体を進化させ、発展させるという視点で考えると、江戸時代に作られたものは、もう作れないものがたくさんあって、それをどうやって進化させるかという課題には、常に頭を悩ませています。」(中里氏)
中里さんは、その課題に挑戦するために、昔つくられていたものを再現してみるという試みをいろいろ行なっているという。
「江戸時代に作られたものの復刻品を作っているのですが、その先祖達が通ったであろう同じ道を辿ることによって、その技術が自分の中に取り込まれていく、すり込まれていく体験があるのです。それが400年間の時の流れの中で、たぶん自分の遺伝子にもおそらくあるんだろうなあと思ってやっています。なかなか先人の域には到達できないのですが、一所懸命やることによって、いただいた技術が自分の中に取り込まれていって、形となって蘇る。そのことを最近よく思うのです。」(中里氏)
朝鮮陶工を源流とする三河内焼の歴史
三河内焼は、江戸時代に平戸藩が連れ帰った韓国陶工・巨関らが長崎県三河内で興した焼き物であり、その平戸藩御用窯が開窯されたのは、1622(元和8)年と伝えられている。
「つまり最初の300年間は、藩がスポンサーになった御用窯に僕らの先祖達が勤めていたわけです。江戸時代のものは、現物は残っていますが、それをどうやって作ったのかは、想像を超えるものがあります。あまりにも、あまりにも繊細過ぎるというか…」と、中里さんはため息をつくが、その瞳の奥には一人の職人としての飽くなき探究心と、先祖から受け継いだ自負と誇りが見てとれる。
「もう一つ超えられない壁があるとすれば、昔の窯であったり、材料だったりします。今は通常ガスの窯で焼成していますが、昔は登窯で焼いていました。それで、今、登窯を復活させる試みも行なっています。絵の具や釉薬にしてもそうですが、昔とは違います。土も、昔江戸時代に採っていた陶石と、今採っているものとでは、明らかに石の成分が変わってきています。今は、熊本の天草から陶石を運んできて、砕いて、水簸(すいひ・水でかき混ぜて余分なものを取り除く作業)して粘土にしています。その工程を400年前は、平戸藩が天草から包丁を研ぐ砥石として輸入して、藩の中で粘土にしていました。早岐港に市場が建っていて、そこで陶石を売買していたようです。また、佐世保湾と大村湾の間に浮かぶ針尾島に網代陶石という石が産出されていて、江戸時代は網代陶石と天草陶石を配合して粘土を作っていました。今は、天草陶石を嬉野や波佐見に持って行って、そこで石を粘土にする業者さんがいて、そこからうちに入って来ています」(中里氏)
昔は藩内で加工していた粘土を今は業者から購入しているとはいえ、そこにも窯元それぞれの工夫があるという。
「粘土自体は、陶土屋さんに作ってもらっていますが、実際どこの土を使うかで、白さがかわってくるのです。それもただ白ければいいというものではない。土にもランクがあって、三川内はどこでも特上クラスを使っているけど、やわらかさとか、温かみを表現したいときに全部を特上にしてもうまくはいかない。そこを意識して素材を吟味することが大切なのです」(中里氏)
平戸藩御用窯の一門であった平戸洸祥団右ヱ門窯は、当時帰化した陶工の一人・中里エイこと高麗媼(こうらいばば)を初代とし、その先祖一統は、1598年の慶長・文禄の役で平戸藩主・松浦鎮信(まつらしげのぶ)公が帰陣する際、豊臣秀吉の命令で連れ帰ってきた、朝鮮出身の陶工だったことが分かっている。
「秀吉の命令で、平戸藩は朝鮮にいた陶工たちを連れて帰ってきました。秀吉に背いていたらお家が潰されていたと思うので、それは生きるか死ぬかの事業だったと思います。高麗媼というのは俗名で、日本名では中里エイと伝わってきています。韓国名は、残念ながら分からないのですが、どこで生まれたかははっきりしていて、韓国の熊川(ウンチョン)だと伝わっています。平戸藩が攻め入った釜山からちょっと行ったところで、韓国側の記述では百人以上日本に来たことになっています。だからそこにあった産業が村ごと根こそぎなくなっているのです。その全員が最初からここに住み着いたわけではなく、当初唐津の中里家に嫁いでいた中里エイは、夫の死後、息子と共にそこから来て窯を開きました」
平戸洸祥団右ヱ門窯に代々伝わる伝統技法
以来、先祖から伝わっている技法の特長は、なんといっても染付と細工にあるという。
「絵付けは、創作作家さんのように思いつくままさらさらっと描くような技法ではなくて、一つの焼き物の中に絵画的に描く手法です。デザインをあらかじめ計算しおいて、ここにこうはまるという形を、紙の上で絵を仕込むところから作業は始まっています。それを骨書きとか、線書きといったりしますが、とにかく繊細に描くことが基本です。色付けに関しても、繊細で緻密なタッチが基本です。絵の手本帳は家にあって、代々受け継がれていますが、中里家独自で持っている図案というものはほぼないですね。それは簡単な話で、窯の運営は平戸藩が主体なので、中里家は窯としては独立していなかったからです。いわば平戸藩が会社で、僕らの先祖達はそこに努めていた社員。明治になってから、やっと窯の特徴というのが出てきたのであって、ある意味、伝統的なものづくりは、江戸時代にほぼほぼ完成されていて、それに基づいて僕らは仕事をしてきているので、うちはこれだっていう意味での仕事はしてきていなかったのです。」(中里氏)
絵柄のなかでも、多く描かれるのは、牡丹唐草文様や蕪絵の柄など。蕪絵は、平戸藩主松浦隆信公が子孫繁栄を願って蕪づくりを推奨したところから来ているという。
「鉄線という草花の絵柄であったりとか、身近にあるものを描いています。絵の具は、天然のものは手に入らないので、今は合成の絵の具を使用しています。色の幅も全然ないわけではないのですが、伝統的には、ほぼほぼ青と白が特徴ですね。ただ、同じ青系統でもその中に色の種類としては十種類くらいはありますし、釉薬も複数あります。同じ絵の具(御須)を使っても、釉薬が違うと同じ青みでありながら、違う味わいの色に焼き上がるのです。したがって、色と釉薬の種類を組み合わせていくと、様々なバリエーションが生まれるのです。」(中里氏)
素焼きした素地に、絵具(呉須)を含ませた筆で絵や文様を描き、着色する。まず、絵柄の輪郭を描く骨描きを行い、次に、絵柄に色を塗る濃み(だみ)という行程に進む。御須は、顔料のコバルトで、下絵の段階では灰色だが、焼きあがると鮮やかな青色になる。
細工は、平戸置上技法や平戸菊花飾細工技法といった伝統技法に根ざしたものづくりにこだわって取り組んでいるという。
「置上げは、生地の本体の上に、0.何ミリの単位で土を塗り重ねていって、絵に立体感を出す技法です。乾いては塗って、乾いては塗ってと、筆で何回も盛っていくのですが、かなり塗らないと完成には至りません。一つの作品を作るのに3日位はかかっています。ただ、その技術を獲得するのには、もっと膨大な時間がかかっていますが(笑)。結局、現代人はこんなものは見たことないと思うのです。磁器での置上はそんなに盛んにされていたわけではないですから、三川内にしかない技法だと思います」(中里氏)
水に溶かした磁土を何度もぬり重ねて立体感を出す。一度にたくさん塗り重ねてしまうと、磁土が乾燥する時に収縮して、はがれたり割れたりすることがあるため、少しずつ進めていかなければならない。
平戸洸祥団右ヱ門窯に代々伝わる平戸菊花飾細工技法は、手捻りの技法で菊の花を造作する最も高度な技術である。彫り起こしたときは、花びらの一枚いちまいが鋭く立っているが、釉薬をかけて焼き上げると、自然の菊のような柔らかさが醸し出されるというから驚きだ。この技法は、平成26年に佐世保市無形文化財に指定されており、その技術保持者は、中里さんの父、中里一郎氏である。
「(作品を見せながら)今これ、菊の形になっていますけど、実際作るときにはなんにもない無垢の土の塊から作っています。竹べらで一枚一枚切り起こして、和菓子の細工のように作っていくのです。はっきりしているのは、この技法は、江戸初期、中期には文献には出ていないのですが、江戸時代末期には確立されていた技法だということです。朝鮮半島には、この技法はないですから、そういう意味ではオリジナルの技法といえます。菊の細工もここ十年くらいの間にみなさんに見てもらう機会が増えたと思います。それまでは、三川内や他の地域の窯元さんからも「菊ばっかり作らんと他のもんも作ってみたらよか」なんて言われたこともありますけど(笑)。明治以降特にそうですが、うちは菊の細工でたまたま代々やってきた。こればっかりやっているわけではないのですが、やはり菊の細工というのは、代々続けてきたことによって、長崎県の無形文化財にも指定されたし、誇れることかと思います。」(中里氏)
先端のとがった竹べらで、磁土の塊りから花びらの形に一枚ずつ切り出している。1周したところで、今度はそれらを一枚ずつ起こしていき、何周もくり返すことによって菊の姿が現れてくる。
職人の誇りが息づく小さな産地にいま注目が集まっている
それにしても本来磁器は、白くて硬いものであるにもかかわらず、絵付けにしても細工にしても、人の手から生まれた柔らかさや温かさを感じられるのが不思議である。「それは三川内の窯元さんはどこもが意識していることです」と中里さんは言う。
「時代背景でいえば、昭和初期までは、家族全員で焼き物を作る生業でした。私の父は朝から土を踏んで、職人さんがろくろを引く前の支度を全部させられて学校に行くのが当たり前の環境だったといいます。僕の時は、そうではありませんでしたが、僕に息子が生まれたときに、親戚が全員、跡継ぎができたと喜んでくれたことを見たら、やはり僕の時も同じだっただろうなと想像がつきます。僕ら世代の息子達は、親からやれともやるなとも言われずに自由に育ってきているので、たぶん親が楽しそうにやっていれば、自分もやりたいと思うでしょうね。営業で都会に行くこともあるけど、それは創作の時間ではない。でもここにいれば、ものは出来るし、やっぱり三川内の空気を吸いながら仕事ができるという生活は、いくらお金を積んでも買えないですからね。」(中里氏)
愚直なまでに変わることのないものづくりを続けて来た三川内は、ある意味取り残された町にも映るが、その変わらなかったことが逆に今や世界からの脚光を浴びている。
「海外の展示会に行っても、家族でこれだけの技術を持ってそれを生業にしているというのはすごく価値があると言われます。三川内は、そのほとんどに何も手を付けていない。焼き物と煙突と自然がある、そのまんまがいいんです。今、一番思っているのは、ここで全て完結させたいので、こちらから売りに出ていくのではなくて、本当に焼き物が好きな人にここを訪れて欲しいですね。三川内焼きは、今まで伝統にこだわってきて、万人に門戸を広げていなかった感はあるのですが、こちらからアプローチしなくても響く人には響く時代になってきたという手応えは感じています。」(中里氏)
工房にあった制作中の置上作品。白に白を重ねるのにも、地の白をワントーン落として置上の立体感を際立たせている。
日本人が日本人であることをみんなが意識するようになって、日本にあるいいものって何だろうと考える時代になったと中里さんは感じている。昔は、海外にあるものを上手に取り入れることをやっていたというが、いまはむしろ日本だからこそできるものに目を向ける時代になってきたと。
「昔完成されたものがあるので、自分の作風については、それに一歩でも近づきたいと考えています。それは後退しているように聞こえるかもしれませんが、昔作られたものが凄すぎて、それを超えて初めて新しいものができるのであって、まず自分の中に技術を取り込んで、それを咀嚼してみないといけない。昔のものに一歩でも近づくというのが、実は新しいものを生み出す早道のように思います。」(中里氏)
「先人のものづくりが凄すぎるんです。どうやって作ったのか、というのは想像はできるのですが、その想像が現実にならないのです」と常に悩みながらも、「人の手だからこそなせるものづくり、それを400年間続けてこられた流れの中に自分はいる」と、中里さんの目は未来を向いていた。