江戸時代に一世を風靡した白い磁器“有田焼”。100年後、“令和時代の有田焼”と言われる器をつくるために、原料と絵柄にこだわる意味とは

前略、日本磁器の隆盛を支えた面影が残る有田の地で、食と器の調和を大切にする陶工に出会いたいアナタヘ

佐賀県有田町は、日本の磁器はじまりの地。

 

現在から遡ること400年、17世紀初頭(1610年代)に朝鮮から有田の地に連れて来られた朝鮮人陶工・金ケ江三兵衛(以下:李参平)らが、泉山で磁器の原料となる陶石を発見し、日本ではじめての磁器が焼かれた。1610年から1650年代までの磁器は、初期伊万里と呼ばれ、有田の地から直接出荷できるようになると、有田町とその周辺地域でつくられた磁器は、有田焼として一世を風靡する焼き物になった。

 

泉山17世紀初頭、この場所で磁器の原料である良質で豊富な陶石が発見された)

 

 

有田町の伝統的建造物群保存地区。1828年9月16日の夜に襲来した台風により大火災に見舞われたが、佐賀本藩や紀州・筑前の陶器商人たちにも援助を願い出て再興を果たし有田焼”400年の歴史を支えてきた。

 

 

日本の磁器はじまりの地・有田町は、長崎空港から車を1時間ほど走らせた盆地にあり、漆喰塗りの町家(しっくいぬりのまちや)や洋風建築の建物が建ち並んでいる。江戸時代後期(1603-1868年)から昭和(1926-1988年)にかけて建てられた建物が残る町並みは、平成3年に国から有田町有田内山伝統的建造物群保存地区として選定された。現在も時代の情景を映し出す町並みから少し歩いたところに陶祖・李参平の住居跡地で創業した有田焼の窯元・「有限会社李荘窯業所(以下、李荘窯)」がある。

 

有田焼の陶祖・李参平の住居跡に佇む「李荘窯」(設立1957年)

 

料理がのせられた初期伊万里(1910年代から1960年代につくられた有田焼の名称)を見て、「初めて白い磁器から人の手の温もりを感じた」と語る「李荘窯」四代目・寺内信二氏は、食器としての有田焼の立ち位置を北大路魯山人の言葉を借りて「食器は料理のきものです」と教えてくれた。食と器の調和を大切にされている寺内氏が奮闘する今の時代を表現した有田焼づくりにかける想いを聞いた。

 

寺内 信二(Shinji Terauchi)氏 「有限会社 李荘窯業所」 代表 / 1962年生まれ。1985年に武蔵野美術大学工芸工業デザイン学科卒業後、株式会社アイトーに入社。1988年に家業の有限会社李荘窯業所に戻る。2015年に自らデザインした器・鎬シリーズが第112回九州山口陶磁展で第1位の経済産業大臣賞に選ばれる。2017年には、デザイン事務所「arita plus」を立ち上げる。

 

 

初期伊万里のような「人の手の温もりを感じられる」磁器を目指して

 

“有田焼は、1616年を起源に約400年の歴史がある。特に有田の陶工たちの技術力が高まったのは、1644年頃からの中国の王朝交代に伴う内乱(いわゆる明末清初)の時代。当時、磁器の主流は、中国の景徳鎮(けいとくちん)磁器だったが、内乱により流通が激減し、有田の磁器需要が急激に増加した。需要の高まりは、急速な技術力の向上を促し、有田焼の様式に影響を与えた。寺内氏は、初期伊万里こそが「自分が求めていた器」だと言う。

 

「磁器ってスカッとしているものと思っていて。絵は下手で稚拙だし、なんかペタっと書いてあるんですよ、初期伊万里って。だけど、料理と運ばれてきた時に、いや、なんとも言えない温もりを感じちゃったんですね」(寺内氏)

 

寺内氏の自宅の庭に落ちていた1930年代から1970年代の陶片。初期伊万里の魅力に気付いたことで「危ないガラクタだった陶片が、宝物に変わった」と笑いながら見せてくれた。

 

 

初期伊万里は、1910年代から1960年代につくられた素地の厚い白い磁器に呉須(ごす)という藍色の顔料を使って染付けをした器だ。李参平の住居跡地にある「李荘窯」だからこそ、職人が白地に単色の藍色で染付をした器づくりを大切にしているそうだ。

 

「アオデのもの(白地に藍色で染付をした器)が400年経った今でも色あせることなく出てくるんですよ。当時の色そのままなんですよね。だから、この青は、自分のテーマカラーにしようと思って。どんなにこっちのいろんな食器で、そういう関係のなさそうなものをつくっていても基本はここにある(白地に藍色で染付をした食器)と思っています。なので、この仕事(染付)は、うちはちゃんと職人も抱えています。ここだけは絶対守らなくてはいけない技術だし、もっとここに寄りたいと思っているんですよ」(寺内氏)

 

等級の違う土でつくられたサンプル。左から、1等石・2等石・3等石のサンプル。等級が下がるごとに、鉄分を含み、若干の黄色味を帯びていく。

 

 

“有田焼の特徴である白い磁器は、泉山や熊本県の天草で採石される白い陶石からつくられる。白い陶石からつくられる陶土は、白いものから特上陶土・撰上(えりじょう)陶土・撰中(えりちゅう)陶土・撰下(えりげ)陶土と呼び方が変わる。「焼き物に関わる人の憧れが白だった」と寺内氏が言うように、白い磁器の美しさは、他産地の焼き物にも影響を与えたようだ。

 

2016年に400年という歴史を迎えた有田焼は、どのように次の100年を迎えるのか。これからの歴史をつくる寺内氏に、白い陶土を活かして何を表現していくのか、と聞くと意外な答えが返ってきた。

 

「白を今後活かしてというよりは、白は白売りですけどね。なんか、あんまり白・白・白って求め過ぎてしまってはダメだったんでしょうね。あまりにも追い求めてしまったばかりに、綺麗なものにいき過ぎてしまって、そこにみたいものを取り残してきているんじゃないかと」(寺内氏)

 

 

原料を起点にした有田焼の新しい表現方法

 

現在、有田焼の原料となる陶土の多くは、天草陶石を使用している。泉山陶石よりも白く程よい粘り気があって使いやすい天草陶石の方が、白さを追求してきた陶工たちに好まれたからだ。寺内氏は、これまでの白さへの追求に対し、「本来、焼き物が持っている曖昧さとか、全部置いてきちゃってる」と評価し、2つの新たな取り組みを笑顔で語ってくれた。

 

泉山陶石。

 

 

1つ目は、泉山回帰。泉山の陶石を使用して磁器をつくる、有田町が有田焼の産地であり続けるための取り組み。

 

「泉山は、果たして使えないのかということなんですが、使えなくはないんですよ。使えるけど、使いづらいから使っていない。あと、取れる量に関しては、ちゃんと調査しないと分からないけど、少しでも泉山の土を使えるように自分たちがしていかないとと思っていて。その土を使い、泉山という冠がつけられるものをつくれるのは、もの以上にそこに価値があるなと思っているんですよ。江戸時代に一世を風靡した土を使っているというのが、すごく重要なんですよね」(寺内氏)

 

天草の採石場で捨てられたきた陶石。左の鉄以外は、4等石に分類される天草陶石。

 

 

2つ目は、エシカルプロジェクト。採石場で捨てられてきた天草陶石の4等石(撰下陶土にも使われない石)をデザインの力で味のある器につくりかえる取り組み。

 

4等石に足すもの足して混ぜてつくったものが、この土なんです。全然使えるんですよね。こうやって見たら。逆にこれ味があって良いじゃん、と自分なんかは思ってるんですよ。もっと鉄分とか、いろんなものがはいってもいいかなと思っています」(寺内氏)

 

2つの取り組みは、決して真っ白とはいえない陶石を「天然陶石の個性」と捉える寺内氏がたどり着いた有田焼の新しい表現方法。現在、泉山回帰は有識者会議の段階で、エシカルプロジェクトは4等石でつくられた陶土が完成したという。

 

 

デザインを起点とした令和の有田焼づくり

 

寺内氏のものづくりの基本は、「器が8割で、料理と合わせることで100%120%に見えるものをつくること」だ。食器としての有田焼は、料理が盛られて完成する。2015年には、寺内氏がデザインした鎬シリーズの器が第112回九州山口陶磁展で第1位の経済産業大臣賞に選ばれた。鎬シリーズの器には、絵が描かれていない。理由には、食と器の調和に対する独自の考え方があった。

 

「今は、食っていう一つの絵があるじゃないかと、料理っていう絵がある。自分がつくった食器をキャンバスに、料理を絵っていう捉え方をすると、絵(食器への絵付け)はいらないなと思っていれなかったんですよ。それは、料理で絵を描くというつもりで」(寺内氏)

 

鎬シリーズ写真

鎬シリーズの器。こだわったのは、器にサンドブラストをかけたこと。「障子のようにも見えるし、折りの陰影が綺麗に表現できた」と説明してくれた。

 

蕎麦打ちやコース料理をつくるほど料理好きな寺内氏は、鎬シリーズの器と食が織りなすマリアージュを嬉しそうに話してくれた。

 

「料理人さんがある番組で使ってくれたんですけど。その人は、日本料理の方で、白い器に白の胡麻豆腐をのせていました。白に白を合わせているんですよ。美しいとしか言いようがないですね。その上に、薄ピンクのあれが、ちょっと乗ってるんですよ。ちょーおしゃれ(笑)」(寺内氏)

 

鎬シリーズは、食器としての有田焼という立ち位置から、あえて絵をなくした器。一方で、寺内氏は、白地に呉須で染付をした初期伊万里のような器を好むからこそ、昔の絵柄を安易に活用することに抵抗がある胸の内を明かしてくれた。

 

「現代に生きる我々が、400年も前の人のものを写しているわけですよ。それが、安心感もあるからそうするんですけど。先人の陶工が、もし見たら、まぁなんか文句言うだろうなって思うんです」(寺内氏)

 

400年前の陶工たちは、資料などに頼らず、その時代の今を描いていた。「一からデザインしたものと、昔のデザインをアレンジしたものでは、力が違う」と力説する寺内氏は、今後の個人的な創作活動を語ってくれた。

 

「今の時代が求める絵っていうのもあるんじゃないかなと思って。そういう風につくっていかなくちゃいけないと思うし、そういうものづくりをしていかないと。自分がつくったものが50年後、100年後に、令和のあの時代にできた文様って言われるようになりたいなとは思ってます」(寺内氏)

 

 

「李荘窯」での工房見学

 

工房の様子。“有田焼”の製作は、分業体制で行われている。

 

 

寺内氏への取材を終えて、「李荘窯」の1階に広がる工房の見学に向かった。工房に一足踏み入れると、ガス窯が稼働する轟音と何かを研磨するような高音が響き渡る。仕上げの工程を見学中に、1つの急須が完成するまでの過程を聞くと、ものづくりの大変さに改めて気づかされた。

 

「これは、2回目の上絵の工程です。まず、青い部分は下絵のところで描いておいて、そのあと釉薬をのせて、1300度の本窯で焼きます。釉薬が溶けた後、上絵といって緑や赤のところを描いていきます。釉薬の上にあるので上絵の作業と言います。1回目の上絵の作業で、緑のところを描いて、窯に入れて、もう1回赤のところを今から作業していきます。(計何回くらい焼いているんですか?)素焼きで1回、本窯で1回、上絵で2回なので、計4回焼いてますね」(菊本氏)

 

上絵の作業。

 

工房見学の案内をしてくれた「李荘窯」マネージャー・菊本氏。

 

 

「李荘窯」が大切にしているココロは、「心を動かすモノ作り」。

陶工たちが一点一点に時間をかけて込めた想いは、きっと誰かの心に届いているはずだ。

 

寺内氏による仕上げの工程。

 

 

“有田焼の伝統技術を直接肌で感じたいと思ったアナタへ。

 

 CRAFT LETTERでは、佐賀・有田焼の産地にある工房で、あなたのためだけの時間を「李荘窯」の職人さんに作ってもらうことができます。その考え方、技法に触れ、ただ直接話すもよし、オリジナルの商品を相談することも可能な職人さんに出逢う旅にでてみませんか?

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