沖縄伝統「紅型」の新しい形を模索し続ける女性職人と最高峰を探求し続ける若き職人。両者が受け継ぎ育む “伝統” と “挑戦”

前略、伝統を尊重しながらも新たな挑戦をし続ける職人に出会いたいアナタヘ

沖縄、かつて「琉球王国」と呼ばれ、15世紀はじめから450年続いたとされる。

ここには琉球王国時代、交易文化の繁栄とともに発展し、王制の解体・第二次世界大戦の影響から消滅の危機に扮しながらも、復興を遂げた伝統的工芸品がある。

琉球文化の象徴、国指定伝統的工芸品「琉球紅型(りゅうきゅうびんがた)」だ。

 

「琉球紅型」。紅型とは、琉球独自の染技で生まれた沖縄の染物の総称のこと。南国の太陽に負けない鮮やかな色彩が特徴で、紅型の「紅」は、琉球の言葉で「多彩な色」を意味し、「型」は「模様」のことを指す。

 

世界で最も美しい民族衣装と称されることもある「紅型」の起源は、15世紀前後。琉球が貿易を行っていた中国やアジア諸国の技法(インド更紗、ジャワ更紗、中国の型紙による花布など)を取り入れ、18世紀には王族の染色技法として確立。当時、紅型は王家やその一族しか身に纏うことを許されていなかったという。

 

今回はそんな中でも、王家お抱えの紅型三宗家(城間家、知念家、沢岻家)のひとつ、知念家の流れをくむ工房「紅型知念研究所」の10代目当主 知念冬馬氏と、一代で工房を築き上げ、職人でありながら、「琉球びんがた事業協同組合」理事長など、紅型の普及に幅広く貢献し続ける「やふそ紅型工房」の代表 屋冨祖幸子氏を取材。

 

「紅型の伝統を絶やさぬように」と、それぞれの立場・想いで多くの人に愛される「紅型」を守り、発展させ続ける両者の想いをまとめました。

 

知念冬馬(Toma Chinen)氏 / 知念家十代目・知念紅型研究所代表 / 1998年 沖縄県生まれ。かつての琉球王国王家お抱えの紅型びんがた三宗家、知念家の流れをくむ家に生まれ17歳より琉球びんがたの知念紅型研究所にて祖父である知念貞男氏の下、紅型作りに従事する。10代後半から京都や大阪、イタリア・ミラノでグラフィックデザインを学び、22歳で知念家十代目(びんがた七代目)として伝統的技術を継承し工房を引き継ぐ。現在、工房の当主として、若手職人の育成をするとともに、国内のみならず海外などにも琉球びんがたの普及、発展に勤しむ。

 

屋冨祖 幸子(Sachiko Yahuso)氏 やふそ紅型工房 代表・琉球びんがた事業協同組合理事長 / 沖縄県生まれ。中学生の頃に紅型の魅力に目覚め、高校で紅型の基礎を学んだのち、東京でジュエリーや宝石のデザインを学んだのち、沖縄に戻り「やふそ紅型工房」を創設。独学で紅型の技術を習得し、積極的に「紅型教室」を開く傍ら、「生活の中にある伝統工芸」をモットーに、日傘や琉球絣、漆器を染めるなど、紅型を生活の中に取り入れた、様々な新しい商品も開発している。

 

伝統ある「知念家」を受け継いだ冬馬氏と、一代で「やふそ紅型工房」を築きあげた屋冨祖氏が紅型の世界に入ったワケ

 

かつての琉球王国王家お抱えの紅型三宗家、知念家の流れをくむ家に生まれ、当時、22歳の若さで知念家八代目の当主であった祖父、知念貞男氏から工房を引き継いだ知念冬馬氏。幼い頃から紅型が身近にあったという冬馬氏が、紅型の世界にしっかりと関わり出したのは、17歳の時だったという。

 

「小学生の頃から学校帰りにランドセルを背負ったまま、工房に行っては、乾かしている作品の下を潜り抜けながら祖父や祖母におかしちょうだい!と言っているような感じで、物心着いた時から、当たり前のように紅型が自分の生活の側にありました。17歳の時に、アルバイトとして祖父の仕事を手伝うようになってからは、仕事としても紅型に関わり始めましたが、実は継ぐことは全く意識していなかったんです。僕の父が継いでいませんでしたし、祖父からも継いで欲しいと言われたことが一度もなかったので、継がなくちゃいけないというプレッシャーも少なかったと思います」(冬馬氏)

 

絶対に継がなくてはならないというプレッシャーを受けなかったからこそ、自分の思いにまっすぐ向き合い、10代後半から京都や大阪、イタリア・ミラノでグラフィックデザインを学んでいた冬馬氏。俯瞰して「紅型」を見れたことで、改めてその技術の高さ、歴史の深さを感じ、ごく自然と紅型をやっていこうと思えたという。

 

知念紅型研究所の工房。常に色付けをした布を乾かすために、工房のいたるところに作品が吊るされている。

 

「イタリアから戻ってきて、紅型の仕事を手伝い始めた矢先に、祖父が亡くなったんです。まずいと思いました。祖父と一緒に工房を支えていた祖母は職人気質だったので、経営を担える人がいなくなってしまったんです。僕は当時はまだ見習いでしたが、経営を担う決意をして、必死に仕事を回していきましたね。今考えると、この経験が本当に大きかった。経営を担っているからこそ、外部の方との顔合わせや打合せが格段に増えて、外部の人たちがどれだけ紅型を重要視しているのかを知ることができました。だからこそ、30歳になるまでには、しっかりと工房を継げるようになろうと決意して、今に至ります」(冬馬氏)

 

紅型をつくる工程には、機械が一切入らない。全てを手作業で作るため、大量生産ができず、呉服業界では特別な品なのだ。冬馬氏にとって紅型は、小さい頃から身近にある「当たり前のもの」だったからこそ、周りの人の声を聞くことで「本当に価値があるもの」だと実感し、途絶えさせてはならないと強く感じたのだ。

 

伝統ある知念家に生まれ、幼少期から紅型に触れてきた知念氏に対し、紅型職人の中には、一代で工房を築き上げた職人もいる。「やふそ紅型工房」の代表 屋冨祖幸子氏だ。一般的に、伝統工芸品をつくる工房には長い歴史と、技術を代々受け継ぐ職人がいる中で、屋冨祖氏が今のスタイルを確立した理由はなんだったのだろうか。

 

「私が紅型に最初に出会ったのは、中学生の時でした。当時、入っていた美術クラブの先生が、琉球大学で美術を教えていた先生を講師に招いて、紅型を教わったんです。もともと絵を描くことが好きだったんですが、紅型の強烈な沖縄の太陽の下で映える、その力強い色彩に魅了されました。沖縄にこんなにも素晴らしいものがあることを知りませんでしたし、そのタイミングで、高校で唯一、伝統工芸を専門的に扱うクラスがある首里高校への進学を先生に勧められました。正直、中学生の頃は、まだ自分が何をしたいかわからなかったので、先生の影響力が大きかったですね」(屋冨祖氏)

 

当時はまだ女性への社会進出に好意的ではなかった中で、ご両親の反対を受けながらも、先生が勧めてくれたことと、一緒に両親を一生懸命説得してくれる先生の姿を見たことで、首里高校への進学を決断したという屋冨祖氏。

 

「首里高校に進学してからは、挫折もありましたが、本当に多くの人と出会うことができました。特に、戦争で何もかもなくなって、みんなでまちを復興させていこうという動きの中で、弟子入りしたかった先生の下で採用してもらえなかったことは大きかった。師匠ができなかった中で、それでもいつか紅型をやるために、デザインの勉強をしようと、東京に出てアクセサリーや宝石の業界に携わりました」(屋冨祖氏)

 

そのあと再び沖縄に戻った屋冨祖氏。この時、沖縄で1,2を争う宝石などの輸入品会社を経営し、こよなく沖縄を愛している女性の存在を知り、興味を持つ。

 

「直感的に、この人に弟子入りしたいと思い、会社にもいきましたが、直接お会いすることはできませんでしたし、特に紹介のあてもない状況でした。ならばと、社長宛に手紙を書いて送ったら、お会いすることができて、そしたら彼女から紅型の工房をやりなさいと言われました。これが、やふそ紅型工房のスタートです」(屋冨祖氏)

 

師匠がいない屋冨祖氏は、とにかく手探りで見よう見まねで技術の習得を続けたという。

 

誰も丁寧に教えてくれるような世界ではなかったので、とにかくいろんな工房を訪ね廻って、試行錯誤を繰り返しながら、進んでいきました。自分でスタートさせた工房だったので、何をやるにも自由で、何をやっても怖くないというのは好都合だったと思います」(屋冨祖氏)

 

そう笑って話す屋冨祖氏だが、ゼロからスタートさせるということは、技術だけでなく、材料の入手先、卸先なども一から見つけるということ。工房をスタートさせた当時は、沖縄の工房を訪ね回るだけでなく、京都や沖縄、アジアにも訪れ、様々な交渉を行なっていたという。

 

先人から受け継ぎ試行錯誤を続ける中で、発揮する工房ごとの「独自技法」

 

紅型をつくるには、おおよそ12の工程が存在し、その全てが手作業で行われるため、工房によってそれぞれのこだわり、個性が生まれる。

知念紅型研究所の代表、冬馬氏が特にこだわっているのは「モチーフ・柄」だ。

 

「祖父は竹とふくら雀のモチーフと、細かい柄が好きだったので、僕も意識して使うようにしています。あとは、1度柄を染め、そこに別の柄を重ねて染める(2種類の型紙を使って染める)ことで、複雑な柄を表現する朧型(おぼろがた)という技法があるんですが、この技法を戦後、いち早く始めたのが祖父だったと聞いているので、僕自身も積極的に朧型の作品に挑戦するようにしています」(冬馬氏)

朧型を取り入れた冬馬氏の作品。

 

朧型は、手間がかかるだけでなく、技術的にも非常に難易度が高いため、現在ではほとんどつくられていない。それでも、なぜ冬馬氏は、あえて朧型に挑戦し続けるのだろうか。

 

「やっぱり面白いんですよ、朧型は。1種類の型だけではどうしても表現の幅が限られてしまいますが、2種類の柄が重なると、奥深さを出すことができます。重ねる型紙の違いによって表情が全然違うんですよ。柄をつくるときは、とにかく呉服(着物)になった時の完成形をイメージしていて、着姿がどう映るか、どんな動きが出るかをイメージしてから柄をつくっています」(冬馬氏)

 

美術館や文献を活用し、昔の職人の作品を目にする機会をたくさん持つようにしているという冬馬氏は、現在の紅型はまだまだ当時の技術に及ばないんだと、腕を組みながら、でも楽しそうに語ってくれた。

 

「古典柄の資料を見ていると、今の紅型ってまだ敵わない部分があるなと思います。もちろん、技術の精度は全体的に上がっているんですが、全体的なバランスや、あえてズラした柄の出す奥深さは現代の紅型がまだまだ及んでいない部分だと思っています」(冬馬氏)

 

その一方で、屋冨祖氏が特にこだわっているのは「色」だという。

 

「紅型の色は、もともと存在している色ではなく、工房ごとでつくられた色なんです。なので、例えば同じピンクという色でも、この工房のピンクはこの色、というように工房の特徴がとても出るんですよ。沖縄には、沖縄の色っていうのがあって、強い太陽光線にも負けないような色を使います」(屋冨祖氏)

 

一般的に染物の色付けには「染料」が使われる。染料は、主に植物から作られ、粒子が細かいため、生地に染み込みやすい。紅型で使われているのは、鉱物を砕いてつくられる「顔料」。顔料は粒子が粗いため、生地の奥まで浸透せず、表面にとどまりやすい。そのため紅型職人らは、2本の筆を使い、生地に色を乗せたあと、強く刷り込むことで、生地に色を定着させるという、手間をかけている。

 

「紫外線や直射日光が強い沖縄では、本土で使うような染料を使ってしまうと、簡単に色が飛んでしまうんです。そもそも紅型は、王族が着る衣装だったので、日に負けないように、太陽に打ち勝つ、力強さを表すために染料ではなく、顔料を使い、顔料ならではの鮮やかな発色を生み出しています」(屋冨祖氏)

 

染物には不向きな顔料と向き合い、沖縄らしい色合いを表現している紅型の中でも、屋冨祖氏の作品は特に、色がハッキリしており、立体感があると人気が高い。

 

「色の立体感をつけるために、紅型職人は隈取りという技法を用いています。色付けって女性のメイクアップに似ていて、女性でも顔に立体感を出すメイクをするじゃないですか。紅型においては、図柄を生かして立体感をつけていくことがとても重要で、これは職人や工房の特徴やセンスがとても試される部分だと思っているので、大切にしています」(屋冨祖氏)

 

第二次世界大戦直後から、紅型の復興を開始した先人たちから受け継ぐ「道具」

 

美しく、華やかな紅型だが、その裏には知られざる復興のドラマが存在する。

 

1945年太平洋戦争末期に起こった「沖縄戦」。沖縄は住民を巻き込んだ激しい地上戦の舞台となった。おびただしい数の爆撃は、その姿から「鉄の暴風」と例えられるほど。死者はおよそ20万人。沖縄県民の4人に1人が犠牲となった。

 

まちは焦土と化し、紅型を作る工房も、道具も、紅型の着物も、その全てが無くなり、紅型が滅びるのは、時間の問題。それでも紅型を復興させようと、紅型職人は奮闘を続けたというから驚く。

 

物資もままならない中で、いたるところに落ちていた薬莢や、米軍の廃品、自らの髪の毛からも紅型を生み出すための道具を作り出し、作品づくりを行った。

 

軍事地図が型紙に。拾ったレコード盤は、糊を伸ばすための糊べらに。そして、メリケン(小麦)粉の袋を解いて生地にし、髪で作った筆で色をあてていく。

 

戦後から復興を遂げ、ものが溢れかえっている現代でも、紅型で使用される道具は「職人の身の回りにあるものを使って自分でつくる」という文化は、どこの工房でも当たり前のように残っており、ものづくりの要となる道具そのものも沖縄に密接に関係している。

 

型彫りをする際に、下敷きとして使用される「ルクジュウ」。沖縄県民が昔から食べている「島豆腐」を2~3ヶ月乾燥させて作られる適度な弾力が、型紙を彫るために指した刃先を守り、彫り続けることができる。乾燥で硬くなるたびに表面を削り、最適な状態に整えて使っているという。

 

生地に色を入れる際に使用される筆。以前までは女の人の髪の毛でつくられたが、現在は人口物を使うことも。大きさや硬さによって使用用途を変えている。

 

道具が限られていると、何かしらアイディアが生まれてくるんだと思います。僕たちも、工房で足りないものがあれば、代用方法を考えることもありますし、他の方法を模索する動きにも繋がります。とはいえ、今以上に物資が限られた中でも、当時の職人の作品は、かなりチャレンジしているものがとても多いんです。こんな技法どうやって染めたんだろうと、研究してもし尽くせないほどの技術が詰め込まれているので、チャレンジ精神とそれに見合う技術を持ち合わせた職人しかいなかったんだろうなと思います」(知念氏)

 

道具も含めて「紅型」という歴史があり、紅型職人はモノが溢れている現代でも、しっかりと本質を大事に守りながら、丁寧に後世に紅型を伝え続けている。

 

冬馬氏と屋冨祖氏が職人として、経営者として、見据える紅型の「今」と「未来」の形

 

これまで先人たちが守り抜いてきた紅型の伝統を尊重しながらも、独自のこだわりや新しいことにも挑戦している冬馬氏と屋冨祖氏。それぞれ今の紅型と、これからの紅型にどんな想いを馳せているのだろうか。

 

「実は、知念冬馬という一人の職人としての作品と、知念紅型研究所という工房としての作品の立ち位置を変えているんです。いち職人としての知念冬馬は、紅型という分野において、超絶技巧を極めたいと思っています。一方で、いち工房としては、紅型をもっと多くの人に知ってもらえるように、とっつきやすいものにもしていきたいと思っているんです」(冬馬氏)

 

職人として朧型を用いた作品を発表し続けている冬馬氏だが、実は、知念紅型研究所ではグラフィックデザインのスキルを生かし、着物の反物だけでなく、チョコレートのパッケージデザインなども手がけている。

 

「点描画やリアル画は、一般の人でもその技術がわかりやすく伝わる一方で、染物や織物、工芸は技術の高さがとてもわかりづらい分野なんですよ。だからこそ、自分自身の技術を高めていく一方で、より多くの方に紅型の魅力を知ってもらうきっかけづくりをしていく必要があると感じています。少なくとも、紅型はみんなが挑戦できる仕事ですが、その中でもどれだけ自分のつくりたいものを実際に生み出せるか、そしてどれだけ一般の人たちにも魅力的だと思ってもらえるものに落とし込めるかという部分で、アートとは異なる魅力があります」(冬馬氏)

 

冬馬氏をはじめ多くの工房が、反物だけでなく、カバンやネクタイ、マスクなど、一般の人たちにも紅型の魅力を伝えるために活動する中、特に精力的に活動し、高い反響を受け続けているのが、屋冨祖氏の作品だ。屋冨祖氏は、今、そしてこれからの紅型業界をどう考えているのだろうか。

 

「そもそも伝統は一人でつくっていくものではないんですよ。先祖代々続いていくから伝統になるわけで、そのためには後世に残していくことが必要です。それは、先人の作品をただ単にモノマネして残すということではなくて、あくまでも先人たちが残してくれた技術を土台にして、時代に合わせて発展させていく道をとらなければ、残っていくことはできません。でも、最初からオリジナルティを求めては、技術の型そのものが崩れてしまう。だからこそ、伝統を重んじる方法と、伝統を土台に現代に利用していく方法2つをしっかり分けてどちらも大切にしてくことが大事なんです」(屋冨祖氏)

 

もともと王族の衣装としてつくられていた紅型は、着物や帯のための反物としてつくられることが基本。しかし、現代社会において、反物だけで生き残ることは難しいことはいうまでもないだろう。

「着物は日本の文化ですから、なくなることはありませんが、だからこそ今のままでは紅型が海外に浸透していくこともありません。そして日本のマーケットが縮小している中で、反物だけではもうやっていけません。だからこそ、どんな形で紅型の布が活かせるのかをしっかりと考えていく必要があります。伝統を守るだけではなく、産業として伸ばしていかないことには苦しくなって、後に続く人が現れなくなってしまうからこそ、積極的に商品開発を行ったり、海外に販路を生み出していくことが大切です。私自身、まだまだやりたいことがたくさんありますが、若い人に道をつくることが何よりも重要だと今は考えています」(屋冨祖氏)

 

紅型を活かしたインテリアは海外の方に人気が高いため、行灯や器をつくったり、日傘や皮の名刺入れ、ガラスの器にも紅型の技巧を凝らし、屋冨祖氏はどの工房よりもはやく、新たな道を切り開き続けている。

 

新しい道を切り開く傍、自分自身が基本的な技術を習得するのに試行錯誤した経験がある屋冨祖氏は、若い職人や職人を目指す人向けに紅型の基本をまとめたテキストを作成。出版した直後に完売し、現在は出回っていない状態だという。

 

職人としても、経営者としても伝統を重んじながら、試行錯誤を続ける知念氏と屋冨祖氏。異なるアプローチから紅型に向き合い続ける両者が、大切にしているのは技術や工房だけでなく、常に伝統工芸の力で沖縄を盛り上げ、未来に紅型を繋げていこうとする強い「挑戦心」なのではないだろうか。

 

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