日本の染めをリードし続ける。流行の先駆者・富田染工芸 5代目が魅せる「江戸小紋」の可能性

前略、東京で400年以上続き、今もなお進化し続ける江戸小紋に触れてみたいアナタへ

東京を代表する街の一つ、新宿。

 

オフィス街にショッピング施設、映画館など、繁華街としてのイメージが強い街ですが、実は古くから地場に根付く伝統工芸産業がある。

 

それこそが、今回取材をした「染め物」。

 

今もなお、神田川流域に染物屋と関連業者が点在し、文化を守り続けている工房の中でも、新宿の地で1914年(大正3年)に創業した江戸小紋・江戸更紗等の染め工房「富田染工芸」の5代目・富田篤さんにお話をお伺いしました。

 

富田 篤 氏 株式会社富田染工芸 代表取締役 / 1948年2月29日生まれ。10歳より家業である「富田染工芸」の手伝いに従事。学習院大学卒業後、婦人服製造会社に就職し、31歳で家業へ戻る。

 

富田染工芸が染める「江戸小紋」と「江戸更紗」

 

「江戸小紋」は、型紙を使用して生地に防染の糊を乗せて柄を付けた後、地色を染めて柄を染め抜く「捺染(なっせん)」という技法が使われる。遠くから見ると無地に見えるが、近くで見ると柄が浮き出てくるように見えるのが特徴だ。

 

一方、「江戸更紗」は型紙と刷毛を使用し、生地に直接色を刷り込んで染める技法。グラデーションのようなぼかし表現をすることが可能で、何色もの色を重ねているのが特徴とされている。

 

江戸小紋。遠目に見ると無地に見えるほどの細かい柄は、平和な時代の武士が「さらに細かく」と競い合う中で「極鮫(ごくさめ)」、「菊菱(きくびし)」など数々の意匠が生み出されていく。 

現在、富田染工芸で主に作られている「江戸小紋」の歴史は室町時代にまで遡り、ゆうに400年を超えるというから驚く。

 

型紙に彫られた型によって染め模様をつくり出す「型染め」には大紋・中紋・小紋の3種類があり、その一つ「小紋柄」が江戸時代に武士の裃(かみしも)に取り入れられたことで本格的に発展を遂げていったそう。

 

富田染工芸では、着物を染めるのに使われる型紙を江戸小紋・江戸更紗合わせると、12万柄以上保有し、伝統的な「型」はもちろん、モダンなデザインのものも数多く揃えているそう。

 

かつて「着物文化」といえば、京都が中心であり、京都で作られた着物が江戸に運ばれていたが、江戸が人口100万人を超える大都市となったことを境に、京都からでは流行に乗り遅れてしまうと、江戸でも着物づくりがスタート。

 

最初に染物屋が集まったのは、新宿周辺ではなく、現在の神田紺屋町の辺りや、隅田川に近い浅草周辺。富田染工芸も最初に工房を開いたのは浅草馬道だったという。

 

小学校3年生の時から、江戸小紋・職人の世界へ弟子入りした

 

現在の場所に富田染工芸が移転したのは、1914年(大正3年)。大正時代に入った頃から、職人たちは「清流」を求めて神田川を遡り、新宿区早稲田、落合周辺に次々と移転した。

 

大正中頃には、神田川と支流の妙正寺川の流域に染色とその関連業者が多く集まったことで、新宿が「地場産業の地」となっていく。

 

染めた布を洗う機械。1963年(昭和38年)までは、実際に工房の前に流れる神田川で洗っていたが、翌年の1964年(昭和39年)に行われた東京オリンピックを契機に、河川環境に対する評価が厳しくなり、1971年(昭和46年)に「水質汚濁防止法」が施行されたことで、神田川を利用した水元と呼ばれる布の洗い作業が禁止された。現在、富田染工芸では、地下水を汲み上げて使用している。

 

「富田染工芸は、僕で5代目。僕は長男でこの家に生まれたので、継ぐことは最初から決まっていたんだよね」(富田氏)

 

富田氏が生まれた昭和20年代に、富田染工芸で働いていた職人は、おおよそ130人。そのうち、30人ほどが住み込みで働いており、富田氏は学校の時間以外は、常に染物に関わっていたという。

 

「朝は夜明けと共に起きて、住み込みしている職人さんたちと一緒に、まず庭と工房の掃除をする。そのあと、朝ごはんを食べて、職人さんたちは仕事に、僕は学校に行く。学校から戻ったら工房の仕事を手伝う。っていう生活を小学校3年生くらいの時からやっていて、衣食住と染物がとても近かった。僕は生まれた時から職人の世界に生きていたから、これが当たり前の世界でしたよ」(富田氏)

 

「東京で一番」という気持ちがあったから、努力できた

 

小さい頃から染物に突き進み、染物のために学校の勉強も、学校以外の勉強も頑張ってきたという富田氏。とにかく「それが当たり前だった」という富田氏だが、話を聞いていくと、もう一つのエネルギー源に出会うことができた。

 

「代々、東京の、日本の染めをリードしているのが、うちの工房(富田染工芸)だと教わってきましたし、僕自身もそうだと思って仕事をしてきました。だからこそ、東京の着物をリードしていく気持ちで、常に新しい流行をキャッチして、他にはない柄や色を考えています。それは今でも変わらず、受け継いでいるものです」(富田氏)

 

色糊は、モチ米・糠・塩など食べられるものを混ぜて、手作業で作り、さらに、色の調合も職人の感覚で行われていく。

  

富田氏の少年時代は、まだ日本がアメリカの占領下だった頃。アメリカやフランスから流行雑誌がどんどん流れてきたことから、柄や色の流行を掴んだり、銀座の中でも高級店が立ち並ぶ柳通りにウィンドウショッピングをしに行ったという。

 

「柳通りを見て回ると、今の流行が見つけられるんです。そういう勉強を僕は小学校3年生の頃から、両親に連れられてやっていました笑。時には、魯山人が運営していた御料理屋で、1食何万円という料理を勉強のためにと食べさせてもらったこともあります」(富田氏)

 

 

本物を学ぶための時間やお金は惜しまないというのが富田家の「当たり前」だったのだ。さらに、富田氏は仕事への姿勢も両親から学んでいた。

 

「僕らの染めの仕事って、色つけをすることだけじゃなくて。1番大事なのは、色づくりをしたり、糊オケや着物を洗ったり、そういうチマチマした仕事。そういう風に両親から教えてもらってきたからこそ、小学校3年生の時から、一生懸命そこにのめり込めたのかもしれません」(富田氏)

 

世の中が変化すれば、伝統工芸も変化する部分があるのは当然のこと

 

富田氏は自身の代から、ファッション小物のブランド「SARAKICHI(さらきち)」を立ち上げ、130年以上の歴史を持つ富田染工芸の伝統技術を基軸に、現代に流れを乗せて新たなスタイルの発信もはじめた。

 

「これだけ世の中が大きく変わっているのだから、伝統工芸も変わっていく必要があると僕自身は思っています。伝統工芸だから、ただ伝統を継承すればいいってことではなくて、新しい部分にまで踏み込むことが大切で、工芸を新しくするために、僕は進んでいきたいと思っています」(富田氏)

 

SARAKICHIの製品はポケットチーフからネクタイ、日傘、ストールなどさまざま。なかでも「四季の日傘」は内側にはヨット、外側には6種の波柄と、江戸小紋でも最高峰といわれる「両面染」を用いた製品。染めの技術とデザイナーのアイデアが見事なまでに融合している。
こちらはSARAKICHIの新しい製品。牛革のクラッチバックに、小紋を用いている。
冨田さんが満を持して見せてくれた江戸更紗のスカーフ。2枚合わせの生地に、ズレないように柄つけを行なっているため、スカーフをつけると、柄が浮かび上がっているかのような立体感が生まれる

 

着物文化の域を超え、武士、江戸っ子たちの洒落心を今に伝えている富田氏。新しい製品を開発していく時に大切なのは「センス」だという。

 

「アイデアを生み出す時は、センスが大切なんですよ。だからこそ、どうやってセンスを磨くかがとても重要で、僕自身、今でも勉強し続けています」(富田氏)

 

さらに、富田氏がアイデアを生み出す上で、大切にしていることをもう一つ教えてくれた。

 

「富田染工芸の主流である着物の部分は、もう息子に渡しているんです。このSARAKICHIは、僕の趣味の世界。新しいものを生み出す時は、ある程度 “ゆとり” がないと、いいものもできないからね。僕はゆとりの中で、まだまだいいものをつくっていきたいと思っています」(富田氏)

 

 

 

常に向上心に溢れ、新しいことに挑戦し続ける富田氏。そこには、東京の染めをリードするという先祖からの教えと、センスを磨く努力の中で培われた自分の中に生まれるアイデアを形にしたいという好奇心があった

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