全て手機で織りなされる、手仕事ならではのぬくもりを感じてもらい、その生業を後世に伝えるためには。

前略、信州ならではのやさしい染め色に癒やされ、昔ながらの手織りの風合いを心ゆくまで愉しみ、手織りや草木染めを体験してみたいと思うあなたへ。

    信州地方では、江戸時代初期より各藩が、競うようにして養蚕を奨励し、紬の産地として繁栄してきた。その中でも真田藩のお膝元、長野県上田市周辺で発展した上田紬は、裏地を3回取り換えるほど丈夫なことから三裏紬と称されて人気を博し、大島紬、結城紬と並ぶ日本三大紬の一つである。上田紬の織元に生まれ、三代目を継ぐ小岩井良馬氏に上田紬の存続にかける思いを聞いた。

     

    真田家の城下町が育んだ上田紬

     

    上田紬は、先染めの平織物で、真田幸村の父、昌幸が農民に織らせた真田織が始まりといわれる。上田は、養蚕から絹織物までの一大産地として知られ、天保年間(183044年)には、上田と京都の間に紬飛脚が立てられたほどだ。

    「真田氏が上田城を築城した際に城下町ができて、地場産業として真田家が奨励したのが真田織で、天正年間の1590年がその始まりとされています。上田紬ができて、養蚕もやってみたら、上田の地が養蚕に適した土地だったということですね。戦国時代は、悠長に養蚕などやっている時代ではなかったのですが、江戸時代になって良い繭ができて、上田紬は爆発的に普及し、発展したのです」(小岩井氏)

     

    工房で機を織る小岩井さん。織機は、もともとは地元のものだが、新調しようとしたら、京都から仕入れなくてはいけない。「もしくは、自分で作るか。機を修理できる職人さんがいなくなっているのも大きな問題です」

     

    打ち込みには手投げ杼を用いる。「ストールは30㎝、着物だったら40㎝、これのように敷物などの小物は15㎝幅で織ります」

     

    丈夫さと縞の美、上田紬を支える織り手たち

     

    小岩井紬工房の織り手は、現在10人くらい。自宅で織機を持って、織ってもらっている職人さんも多い。

    小岩井さんによると、上田紬には二つの大きな特徴があるという。一つは、その丈夫さだ。経糸と緯糸がしっかり交差する平織りで、摩擦に強く、日常着として長持ちする。江戸時代には、「真田幸村のように丈夫で強い」と比喩されるほどだったという。

    もう一つが縞柄、格子柄のシンプルで飽きがこない意匠。西陣織のような華やかさよりも、実用的で渋い美しさが上田紬の柄の特徴で、草木染めの茶・藍・鼠色などと組み合わさり、信州らしい落ち着いた風合いを生んでいる。

    「その縞柄、格子柄が、上田縞と呼ばれて人気を博してきたのです」(小岩井氏)

    そう言って、小岩井さんは、小岩井家が所蔵する過去の見本帳を出してきてくれた。

    「これは明治期の昔の見本帳です。ほぼ、経は縞柄で、緯は無地ですね。上田紬は、経と緯の重なりで色と模様を出すので、こういう過去の見本を手にすると、現代の織り手にとってもイメージが湧くのです」(小岩井氏)

     

    明治期の織柄の見本帳


    武士から養蚕農家、織元へ。小岩井家と上田紬再興の歩み

     

    小岩井家のルーツは、武田家に仕えていた武士だったという。上田市のある東信州地域には、平安時代末から戦国時代にかけて勢力を持った海野一族がいた。「海野一族の流れに真田家もあり、うちは岩下家だったのです。真田家と同じように岩下家も武田家に仕えるようになり、武田家が織田信長に滅ぼされた時に、武士から商人になって上田に落ち延び、岩下を伏せて小岩井に改姓したのです。そして、江戸時代中後期から養蚕が盛んになったので、うちも蚕糸の仕事をするようになり、昭和の初め頃までやっていました」(小岩井氏)

    ところが、世界大恐慌で糸価が暴落し、小岩井さんの祖父は、日中戦争で出兵し、一度廃業したのだという。そして終戦後に、祖母の小岩井雅代氏が織りが好きだったこともあり、今度は織元として再起を果たした。

    「上田紬そのものも一回は衰退したのですが、戦後に上田で伝統文化復興の運動があって、うちのお祖母ちゃんもその動きの中で、織元として参加したのです」(小岩井氏)

     

    2階は、下ごしらえ(整経)を行う工房になっている。経糸の長さや幅の企画を作る重要な工程で、帯用の経糸を準備している最中だった。「帯の場合は340本、着物の場合は1200本の経糸を使います。着物のほうが糸を細かく、多く使い、帯は比較的ざっくりとした糸使いで、やや粗めに織ります」


    三代目が気づいた上田紬の価値

     

    父の小岩井武氏がその後を継ぎ、織元としては小岩井良馬氏は三代目になる。初代の頃の戦後は、高度経済成長で着物ブームが起きて、全国的にも着物業界が盛り上がった時代。当時は上田紬の織元も40軒くらいはあったという。

    「うちにも百人ほどの織り手がいましたが、それでも納品まで3年待ちという状態でした。生産が追いつかない状態で、それがオイルショックで一旦落ち着いて、バブルの崩壊でガタンと来て、それから年々右肩下がりの現状です。着物業界の市場規模は、1980年代に1兆8千億円、僕が入った20年前は4千億くらいあって、今は2千億円ほど。コロナでまた落ちてという状態です」(小岩井氏)

    小岩井さん自身、家業を継ぐ気は全くなく、大学卒業後は海外に憧れて3年ほどドイツの日本食のレストランで働いていた。そして、海外で暮らしてみて、初めて日本の良さに気づいたという。

    「地続きのヨーロッパでは、見た目も似ていて、言葉も近い。だからこそ、自分たちの民族的なアイデンティティを明確に主張しないと、他と同化してしまうため、自国の文化を本当に大切にしている。日本って、島国だし、それまでそんな自覚はなかったけど、自分は何者なのかという問いを突きつけられた気がしました」(小岩井氏)

    自分は日本人で、もっと日本の文化を大切にしなくてはいけない。その上で日本に戻って、日本の何かをやりたいと思ったときに、自分の足下に本当に大切なものがあったことに初めて気づいたという。

    「僕が入った20年程前には、織元は6軒しか残っていなくて、うちの織り手の方も5人くらいしかいなかったのかな。両親も僕が継ぐなんて思ってもみなかったので、他の織元のように廃業していく流れだったのです。自分も学生時代までは、機織りを仕事という目で見ていなかったのですが、家業を継ぐと言ったら本当にびっくりされました。(笑)」(小岩井氏)

     

    小岩井良馬(Ryoma Koiwai)氏 上田紬織元。小岩井紬工房代表。1975年、長野県上田市生まれ。子どもの頃から機の音を聞いて育つ。和光大学経済学部卒業後、海外生活を夢見て、ワーキングビザを取得し、ドイツで3年間働く。その後実家に戻り、小岩井紬工房の3代目として事業を引き継ぐ。伝統工芸士


    三代目が向き合う伝統と市場のバランス

     

    日本に帰った小岩井さんは、最初は沖縄で、琉球絣の織りを2ヵ月ほど習った後に上田に戻った。

    「織りは工場にいた職人さんに教えてもらって技術を習得し、染色も教えてもらいました。戦後しばらくは、ここでも養蚕をして糸作りからやっていたのですが、高度経済成長になって追いつかなくなって、その頃から糸は購入するようになりました。染色はこちらでずっとやっています」(小岩井氏)

    人に聞かなくても一通りの仕事をこなせるようになるまでに、3年くらいはかかったという小岩井さん。難しいところを聞くと、しばらく考えて、デザインを考えるのが一番難しいと答えた。

    「技術的なところは、難しいは難しいのですが、繰り返しの積み重ねなので、織った時間と量が解決してくれます。デザイン的なところは、やっぱり売れるものを作らないといけないし、ただそちらに寄せ過ぎると、うちのカラーがなくなってしまう。上田紬の伝統を保ちながら売れるものをつくっていく。そのバランスが難しいと思っています」(小岩井氏)

     

    りんご染めのストール


    信州の風土を染める、りんご染めと千本桜染め

     

    そこで、3代目となった小岩井さんが取り組んでいるのが、長野県独自のものを生かしたものづくり。長野の特産であるりんごで染めたりんご染めと、上田城の桜で染めた千本桜染めである。上田紬の魅力である草木染めは、天然の植物から抽出した染料を用いることで、ひとつひとつ異なる柔らかく深みのある色合いに仕上がり、使い込むほどにその風合いが増す。りんご染めはりんごの木だけ、千本桜染めは桜の木だけを使い、樹皮を煮出し袋に入れて煮て、そこに糸を入れて染める。何回も染めていくことで、色を濃くしていくという。

    小岩井さんが工房に入って間もない頃から取り組んでいるりんご染めは、地域の農家さんが剪定したりんごの枝や樹皮から抽出した染料で染めており、淡く上品なニュアンスカラーが魅力だ。

    「りんご染めは、黄色ベースのいろんな色合いが出ます。同じ黄色でも、りんごの木の品種とか、焙煎方法によって、いろんな黄色が表現できるのです。染める時期によっても違いが出てきます」(小岩井氏)

    真田氏の居城であった上田城の千本桜は、桜の名所として知られている。2021年より始めた千本桜染めは、上田城のソメイヨシノの枝や樹皮を使い、何度も染め重ねることで桜色や優しいベージュなど自然の美しさを表現している。染まり方は桜の採取の時期や染色の工程などによって大きく異なり、同じ色は二つとない世界にひとつだけの特別な一品となる。

    「千本桜染めは、桜の花びらの淡いピンク色です。上田紬のブランドに育てばいいなと思って始めました」(小岩井氏)

     

    草木染めの材料となるりんごの樹皮

    工房で染められた草木染めの糸

    りんご染めのバッグ


    伝統工芸の工房が模索する新たな道

     

    「これでやっていけるなんて、思ったことないです。毎年、毎年、試行錯誤です」と小岩井さんは笑う。

    やはり既存の着物業界の流通ルートだと、消費者に届くまでが複雑で、同じ商品でも売場によって上代もまちまち。作り手も問屋さん経由しかつてがないから、買いたたかれて疲弊してしまうという。百貨店の催事で活路を見いだそうとしたこともあったが、集客そのものは独自に開拓しなくてはならず、そもそも催事にずっと出ていると機を織る時間がなくなってしまう。それは小さな工房のスタイルでは難しいと痛感した。

    「直接お客さんに届ける方法、もしくは着物以外のアイテムで売り上げの柱を作っていかないとやっぱり厳しいなと、当初から思っていまして、ちょっとずつ変えていきました」(小岩井氏)

    小岩井さんが家業に入った頃は、着物の和装がメインだったが、新しい商品開発を行い、小物のアイテムを増やしていった。10年ほど前からは、上田紬の体験ワークショップを開催しているという。

    「もともと一時間くらいで終わる体験はやっていたのですが、一日かけてストールをしっかり織っていただくというワークショップを開催していて、それもけっこう人気で毎年続けています。草木染めのワークショップもやっています。自然と歴史のある上田にお客さんに来ていただいて、小物も買っていただけますし、自分は出かけて行くのではなく、ここにいるので経費もかからないし。(笑)」(小岩井氏)

    「伝統工芸は、全てそうだと思うのですが、上田紬には、普段使っているものとは違う、品の良いぬくもり感があります。全部手織りでやっているので、手仕事ならではの温かみが感じられるのです。こういったものが生活のなかにあると、気持ちにゆとりができていいですね」と、小岩井さんはいう。

    そんな小岩井さんは、上田紬を残して後世に伝えるのは、どうすればいいのかをつねに考えている。

    「上田紬の工房は、この20年で2軒減って、今は4軒のみ。安定的に続けていけるような仕組みが作れればいいですね。どんなかたちか今は分かりませんが、地元の個人の人が支えていくような立ち位置に伝統工芸がなっていけばいい。うちもそうですけが、今はそれぞれ個人経営でやっていますが、包括的な組織作りができればいいなと考えています」(小岩井氏)

    そう言って、小岩井さんは、上田紬のこの先を見つめている。

     

     

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