京都が育んできた美の営みの蓄積の中から、さらに広がりを見せる焼き物づくりとは

前略、ありとあらゆる美の産物が集められた京の都で、写され、磨かれ続けてきた京焼・清水焼の世界に触れたいアナタへ

京焼・清水焼の里、日吉地区は、京都の焼き物の産地の中でも京都駅から最も近い位置にあり、山科方向に東へ歩いても行ける地域。この地に、西仁太松(にしにたまつ)により初めて陶業の窯が開かれたのは大正2年といわれ、以後京焼・清水焼の主要産地として現在に至っている。坂道に沿って数々の窯元が建ち並ぶその一画に、洸春窯(こうしゅんかま)はある。高島慎一氏は、1943年に開窯した洸春窯の三代目である。

 

「もともと、京都の京焼、清水焼とよばれる焼き物は、わりと白地に藍色で描くものが多いのです。四百年前に京焼が本格的に作られ始めた時に、仁清(にんせい)、乾山(けんざん)らの巨人が出たんです。その方々を手本として作られた焼き物が、仁清写し、乾山写しとかいうのですが、それらがいってみれば京焼の本流なのです。ただ洸春窯の場合は、そういうものを初代は作っていたのですが、先代の父の頃から毛色の変わった焼き物を作るようになり、私になってさらに独自の焼き物を追求しています」(高島氏)

 

高島慎一(Shinichi Takashima )氏「洸春窯」/1972年京都市生まれ。大学院を修了後、サラリーマンを経て24歳で父である故・二代目高島洸春に師事。2005年に三代目高島洸春を襲名する。鮮やかな色合いの交趾(こうち)を中心に、焼き物が持つ新しい表現の可能性に取り組みながら作陶している。2012年、京都・清水焼伝統工芸士、京都市伝統産業「未来の名匠」に認定。

 

器に立体感を出し、独特の手ざわりを生む、いっちん。

 

洸春窯初代高島敏秋氏は、白地に藍色の絵付けのシンプルな京焼を作っていた。二代目昭雄氏は、それまでお茶道具で重用されていた交趾(こうち)という釉薬を食器の世界に取り込んだ陶芸家で、色鮮やかな色彩で、いっちんの技法と組み合わせた作品を創出したという。

 

「ようは、生き残るためには他の窯と同じ事はしてられへんということなんですが、洸春窯の特長的な技法にいっちんがあります。これは、友禅の糊置きという工程がありして、それと同じ道具を使うのですが、粘土をペースト状にして、袋から絞り出して器に立体的に絵を描く技法です。普通絵付けというと、ほぼ筆で描くのですが、これはケーキのデコレーションみたいに粘土を水で溶いて絞り出して描くんです」(高島氏)

 

いっちん。一般的に絵付は筆を使うが、いっちんは絞り袋を使って描いていく。

 

「見てもらった方が早いですね」と言いながら、傍らの皿を手に取って、さっそくいっちんの実演を見せてもらった。規則正しい七宝紋(しっぽうもん)を描きながらも手描きならではの温もりが感じられる。確かに手に触れてみてその文様の感触を確かめたくなる立体感だ。

 

「いっちんの糊に絵の具を入れて、青とか黒などの色を付けることができます。そうなるとそれは、型ではやりにくいんですね。型に線を彫り込めば、凸面は出せるので、造形だけだったら機械でもできるとは思うんですが、色を入れるとなると別の工程がいるので誰もやらない。僕はどちらかというと機械でできるものは機械でやればいいと思っているし、機械より下手くそな手作りなんていらないんです、生意気なこというようですが。機械に出来ない技術だからこそ、手でやっている意味がある。その意味が何かというのを探り探りしているのが現状です」(高島氏)

 

それでは、手で作り続けることの難しさ、そして楽しさとは何だろうか。

 

「いっちんの難しさはというと、やはり均一にならないことなんですが、そこにこそ手作りならではの味が出てきます。機械でやると全部同じになってしまうので、もちろんこれはこれでいいんです。不思議なことに、こんなんずーっと一日やっていても飽きないですね。確かに次はもっとこうしたいとか、毎日思うんですよ。若い頃は、握り方の力加減がわからないんで、線の太さが揃わなかったのが、それが分かりだしたら揃うようになってきた。一個描くのに20分かかっていたのが、一年経ったら15分になった。そういう目にみえる進歩があるんで、それがなんぼやっても飽きないことの理由だと思います」(高島氏)

 

高島氏自身は、自分の焼き物を追究する中で、手の込んだものというよりは、よりシンプルな作品作りを目指しているという。

 

「職人というものは、腕に覚えのある人達なので、自分の思いばっかりで走るんです。こうしたらもっとよくなるという思いは強いのですが、お客さんからしたら、そこまでせんでええねんとかあるんです。そのさじ加減が、ずっと難しいですね。いっちんゆうのは、本当は人の名前なんですよ、江戸時代前期の狩野派の絵師だった久隅守景という人の。その方が一陳翁という雅号を名乗っていて、方々で染め物の指導していたのです。それでこの技法は、友禅の世界ではいっちんというし、我々もいっちんといいます。おそらくもとを辿れば中国なんですよ。法花と書いてファーファと呼ぶらしいのですが、そういう立体で絵を描く技法が明の頃には確立されています。それはうちの父もやっていました。いっちんを描いた上で、その境界で色を塗り分けるというもっと派手な装飾の仕事をしていたんですが、僕はどちらかというと、いっちんそのものの手触りが気持ちいいねと言われるような作品をつくりたいのです」(高島氏)

 

 

交趾七宝。七宝紋とは、同じ大きさの円形を重ねてつないだ連続紋のこと。

 

コーチンから渡ってきた製法が、いまでは京焼を代表する技法の一つに

 

先代の父が取り入れたという、交趾(コーチ)焼とは、中国の明後期から清朝初期に焼成された三彩陶(さんさいとう)の一種とされる。純粋な     三彩陶と法花(ほうか)の系譜をひくものとに大別されるという。法花は、器表にかける釉の色が互いに混らないようにするため、突起した白色の境界線をつくりこの中に釉をかけるのがもともとの技法で、濃厚華麗な色調の美しさが特長である。洸春窯では、いっちんで描いた下絵にそって、筆で交趾釉を絵付けする技法を得意としている。

 

「交趾てね、釉薬の名前なんですが、色鮮やかな黄色とか緑とかいろんな色があるんです。通常の釉薬は、柄杓(ひしゃく)みたいなのでドボーっとかけるもんですけど、これはそういうもんではなくて、低い温度で焼き付けるための釉薬なんです。交趾焼の場合は、1250℃くらいで釉薬をかけずに一回焼いて、硬くなったところに800℃くらいで定着する色を付けるんです。色ガラスみたいなもんですが、七宝焼きとはまたちょっと違うんです。交趾はもともと中国のものなんですが、ベトナムのコーチンから貿易船で入って来たものを「交趾もの」という言い方を昔はしていました。「舶来もの」と同じ意味で、貿易船で来たものは何でもかんでも「交趾もの」って呼んでいたそうなんです」(高島氏)

 

交趾釉。糊が入っていて粘性がある。

 

交趾の絵付けは、妻である高島あおい氏の仕事。この釉薬を焼くと緑色になる。

 

交趾釉による絵付けは、釉薬に糊で粘りを持たせて、どろどろにして、均一にしたものを塗っていく技法。手でないと塗れない釉薬で、京都でも数軒の窯元でしかやっていないという。

 

「うちでは奥さんの仕事で、手が足りないんで、見るに見かねてやりだしました。これが、残念なくらいちょっとずつしか出来ないんです(笑)。粘りの強い材料なので、ばーっと伸ばして面を塗ることができないし、糊材を焼くことで飛ばしてしまって、ガラス質だけ定着させるのですが、薄く塗ってしまうとほとんど糊なんで色がつかないんです。だから、ある程度厚みを持たせて塗らなくてはならなくて、このやり方は、なかなか学校では教えてくれないんです。ちなみに、この青いグレーの釉薬が、焼くと緑になります。白いガラス質になる材料がありまして、それに酸化銅を入れて緑にするんです。緑とか紺とかは、昔からある色で、最近では材料が良くなってきて、赤なんかの色もあります」(高島氏)

 

工房2階にある、絵付けの仕事場にて

 

京焼の技法を駆使して、手作りならではの世界を追求する

 

京都は、焼き物の里としてもその歴史は古い。登り窯の時代の話になるが、焼き物の産地は京都に限らず、だいたい山間にあった。昔は、ちょうどいい傾斜の土地で、なおかついい粘土が出るのが焼き物の産地の絶対条件だったという。

 

「なぜかというと、傾斜の下から火をくべると炎が勝手に上に上がっていくので、そういう設計の窯が作りやすい。この土地も大正2年に初めて本格的な登り窯ができたっていう記録が残っています。いまでこそ各窯元がそれぞれ焼いていますが、昔はコミュニティの中に大きな登り窯があって、焼く日を決めて、みんなで一緒に焼いたんです。その名残で窯が集積しているんです。その中でうちの本家を辿ると、僕の祖父が子どもの頃、明治時代に瀬戸から来たらしいのです。同じように京都の陶器屋さんって、よほどの名門じゃない限り、京都の人ほとんどいないんですよ。九谷とか瀬戸、美濃、いろんなところから出てきています。今でいうと、若い人が東京行きたがるのと同じで、明治時代は京都行きたがる陶芸家が多かったんやと思うんです」(高島氏)

 

絶対条件のもう一つ、土についても伺った。

 

「土はね、京都に無いとはいいませんが、我々が仕事で使うまでの潤沢な量はないので、他産地から仕入れています。磁器に関しては、兵庫県の出石に鉱脈があって、そこは京都の原料屋さんが採掘権を持っているので、そこの土と、後は、九州の有田から仕入れてきて、それをミックスしてちょうどいい白になるように調整して使っています。陶器で多いのは信楽が多くて、後は美濃ですね。粘土だけで十分な個性は出ないのですが、他社とは違うテイストを求めてやっています」

 

京焼全体の魅力はというと、特定の技法に偏らず、あらゆる陶磁器を製作できる高度な技術を持っている産地であるという。

 

「江戸時代の手前くらいで千利休が出て、茶の湯一つ持つことが権力の象徴のような、そんなお茶の文化が花開きました。その頃、京都には帝がいて、武士がいて、彼らの物欲を満たすために、美濃から陶工を集めて、作らせたらしいです。海外からくる献品はまず帝に行ってしまうので、その下の公家達は、指をくわえて見てしかないのですが、そこで何が起こるかというと写しという文化なんです。例えば、京都の陶器にオランダ写しもある。だからありとあらゆる陶器が、京都の中で生産されていくんですね。金に糸目を付けずに、こんなん作ってくれゆう人がいっぱいいたからこそ、その要望に応えていくうちに、いろんな焼き物が作れるようになったんちゃうか、というのが僕の解釈です(笑)」(高島氏)

 

 

窯元の長男として生まれ育った高島氏ではあるが、高校卒業時になんとなく家業を継ごうとしたところ、先代から「陶器屋の息子やからというだけで陶器屋するんやったら止めとけ、絶対続かへんから」と、一喝されたという。

 

「僕、昭和47年生まれなんですが、子どもの頃って、男の子が生まれると跡取り息子やいわれるんですよ。だから、そういうもんやろと。ただ、先代がありがたかったのが、いろんなことをやった上での陶器屋やったらいいから、一回外出ろいわれたこと。継げとは一回もいわれてないです。ただ、働きはじめてからですかね、当時勤めていた会社で、十年後自分がどうなっているか全く見えなかった。仕事が面白くないとか、会社が嫌やとかはなかったのですが、会社から帰ってきて、この工房でぼーっと一人座って考えた。その時、うちの父親の代でやめんでもえんちゃうかなと、なんかの拍子でそう思って、改めて親に話をしたのが24の歳でした」(高島氏)

 

先代を亡くして、33歳にして三代目高島洸春を襲名した高島氏は、以後、確かな技術とそのフレキブルな思考力を発揮して、時代の先を見据えた作陶を続けている。

 

「難しい注文が来たときに、「値段が合わない」とか、「そう焼いたら形にならない」とか、そのロジックは、職人は、上手に立てるんですけど、だから「どうしたらできるか」が大事なことやと思ってるんです。ただ、そういう仕事ってね、ほぼ儲からないんです(笑)、失敗が多いから。でもそれやると確実にスキルが上がるんで、どうしたらできるかを考えて限界を作らずに一歩踏み込むことが必要だと思っています」(高島氏)

 

最近では、ホテルのフロントの壁面に飾るアートタイルや照明器具のランプシェードなど、京焼の技法を活かして、異業種の分野にもその可能性を広げている。

 

「いままでの流通に留まらずに、他の世界にもっと目を向ける時間を作ろうと思っています。僕の技術や洸春窯の商品が役に立つ分野がないかなあと。それは、ある建築家と知り合って、オリジナル商品の相談を受けたことがきっかけですが、彼らの業界の建材メーカーではロットがないと対応できないけど、僕らは手仕事なんで小ロットでもオリジナルが作れるんです。自分たちの価値を重宝がってくれるお客さんもいることに気づいたんですね」(高島氏)

 

そして、工芸品としての器をもっと普及させて、いろんな人たちの生活に京焼の彩りを添えたいと願っている。

 

「僕らの商品は、工芸品といわれるものに属しているので、比較的高価なものが多いんです。特に京都では、名品と呼ばれる焼き物や、名匠と呼ばれる人達はいっぱいいて、いつかはああいうものを持ちたいと思うものはもうすでに世の中にあるんです。ただ、高価であるがゆえに、若い人達には手に取りづらいものになってしまっている。だから僕はどっちかというと、初めての工芸品という感じの器、例えば若い新婚世帯が、ちょっとがんばって買いたいと思っていただける、そんな焼き物もこれからは焼きたいですね」(高島氏)

 

工房内に設けられたギャラリーにて

 

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