前略、日本屈指の焼き物の町・信楽で、夫婦で営む温もりのある伝統工芸の世界に包まれたいあなたへ。
滋賀県の信楽は、滋賀県西南部に位置する山に囲まれたのどかな土地である。西に京都、東に三重、南に奈良、西南方面には大阪と、古くから主要都市を結ぶ交通路として、多くの人々の往来があったといい、良質な陶土に恵まれた焼き物の里として発展してきた。中世より壺や甕(かめ)、擂り鉢などの焼き物づくりが始められ、室町・桃山時代以降、茶人たちが目をつけたのは、信楽の和物の雑器で、たびたび茶会に用いられた。江戸時代以降は、日常雑器が主流になり、明治時代には、大物制作を得意とした信楽では、海鼠(なまこ)釉を使った火鉢の生産で大きな発展を遂げて、昭和初期には全国の約90%を生産していたという。昭和30年代に火鉢にとって代わって主流になったのは植木鉢で、以降も、信楽のシンボルとなっている狸、タイル、食器、花器などの様々な生産品に取り組み、日本有数の陶産地として存続しながら、多くの陶芸家を輩出してきた。
信楽のメインロード、国道307号沿いにみのる窯はある。ともに作家の松川実さんと京子さんの夫婦で営むギャラリーショップが、訪れる人を温かく迎えてくれる。溢れんばかりに並べられたその作品群をわくわくしながら一点一点手に取って見てみると、作り手の拘りが奥深く感じられる。
「信楽焼の先祖から伝わってきた釉薬の調合を、私は、教わっていたんです。その調合いうのは、日本人の感性に合うような穏やかな色合い、飽きのこない色合いです。焼き物自体は、信楽の荒い土にかけて焼くと、焼いた時よりかは表情が付いていって、最初に食器を使ったその日から色が変わっていくんです。作り手は焼くまでが仕事で、あとは買った人が、自分流に使い慣らした味を出していくのが焼き物の醍醐味ですから、私もそれを心がけてずっとやってきました。自分の感性で、やわらかい焼き肌を出そう思って、なるべく天然の草木灰を使って、釜の焼き方とか土を変えてと、いろいろ試しながら作ってきたんです」(実氏)
信楽焼の見所といえば、ビードロ釉(自然釉)、灰かぶり、土肌がほんのり赤っぽくなる火色など様々あるが、実さんは、伝統技法だけに留まらない独自の世界観を築き上げている。その代表的なシリーズが、楢(なら)灰と銀河である。
「私の楢灰いうのはね、上に楢の木の灰がかかっているんです。その下には藁の灰がかかっているんです。ふつう信楽で使うのは、灰釉ゆうて乳濁した釉(くすり)なんですが、それは藁灰、土灰、長石の3成分を調合して作る釉薬で、焼き上がりも非常に安定しているんです。それで調合したらみなさんのやってるもんしか出てこうへんから、私、ちょっと発想変えて、一つずつ分解して焼いたらどうかなと。人と違うもの作りたいゆうことで、楢灰シリーズというのを作ったんです」(実氏)
本来なら調合した灰釉を使えば、1回の本焼きで済むべきところを、最初に藁釉で焼いた後に今度は楢釉で焼き直す。つまり、単成分の灰釉で何回も焼くというのだ。
「藁の灰自体は、1400℃に上げても溶けないんです。その上に長石なり、楢の木の灰なんかをかけると、ほどよい二重がけみたいな感じで溶けて、面白い結晶ができるんです。それをしたら、人と違う雰囲気の色合いができるんですね。ただし、これは非常に失敗が多いんです。それは、土とか窯の雰囲気とか、器の大きさ、窯への詰め方、窯の冷却度といろんなものに関わってきて、結晶がいろいろ変わるんで、焼かんとわからへんのです。窯の度に、二つと同じものはできません」(実氏)
実さんの焼き物に対する探究心は、とどまるところを知らないようだ。
「楢灰の場合は、二度焼きいうて、1200〜1300℃の温度の本窯を二回焼く。また炭化いうて炭を入れて焼くのと、いろいろパターンがあって、それぞれちょっとずつ特長があるんです。藁の灰は変わらないんですが、木の灰は今は楢灰ですが、松の灰とか、雑木とか、栗皮灰とか、灰を変えることによっても色合いがまた赤っぽくなったり、茶色っぽくなったり、黄色っぽくなったりして面白いんです。これやったら、昔からやっている薪窯と同じ雰囲気が出るんで、そんな作風を今のガス窯で追究してるんです」(実氏)
もう一つの代表作、銀河シリーズは、まさに宇宙のような世界観が焼き物の中に広がっている。
「銀河の釉薬は、コバルト結晶釉いうんですよ。信楽で火鉢やっていた頃の青海鼠(なまこ)釉いうて火鉢類の調合と同じで、コバルトの量が多いんです。それを楢灰焼く窯と同じ温度で焼いてみたら、たまたま明るいこんな赤い色が出たんですよ。最初はざらざらしたのが焼き上がってきて、もうちょっと改良して薄くしたり、コバルトの石の原料をまた変えたりしたら、赤が出たり、ちょっと青っぽいのが出たり、色んな銀河のシリーズが出てきたんです。お客さんの好みで、赤が好きな人や、青がええ言う人とかもいはるんで、うまいこと分散できてよかったなと(笑)。それが今の銀河につながっているんです」(実氏)
信楽の土地は、現在の琵琶湖の前身である古琵琶湖が隆起してできた古琵琶湖層で、現在の琵琶湖付近にあった山脈から流出した土が堆積し、焼き物に適した土になったといわれている。実さん自身も素材に対する拘りは並々ならぬものがある。
「土は土屋さんから買うのですが、私の場合は、信楽の土がメインになって、あとは奈良、京都、和歌山、瀬戸ゆうような陶産地の原料を土屋さんがブレンドしたものです。それを自分の出したい色、窯の雰囲気、作りやすさとか、そういうのを考えて買うのです。楢灰用のものは、信楽の土も入っているし、瀬戸の土も入っているし、それを面白い色合いが出るように、ある割合で自分で調合しています。土ものやから、欠けやすいものも出てくるんですが、そのために欠けにくくするための土を配合するんです。楢灰と銀河は同じような土ですが、両方ともに荒い土、細かい土と、土によってもまた色あいが変わってくる。土も自然のもんやし、釉薬の色も自然のもんやから、その掛け合わせで、色んな表情が楽しめるんです」(実氏)
いまでこそ信楽焼作家の第一人者である実さんだが、もともとは奈良の出身。信楽には就職で来ただけだったというが、焼き物の魅力に取り憑かれるまでには、さほどの月日は要しなかったようだ。
「25歳の時に就職したのが、火鉢、植木鉢、テーブルとか傘立てを作っていた山文製陶所。その親戚に食器類を作っていたみはる窯があって、その窯の神崎継春さんに陶芸を習いに毎晩遊びに行っていたんです。だんだんのめり込んでいって、毎晩遅くなって朝も起きられなくなったので、これは独立した方がいいかなと28歳の時に会社を辞めたんです。ただし、独立しても窯もないし、釉薬の調合も知らん。生仕事ゆうて、一つ20円か30円の生地だけ作る仕事があって、それで腕を上げて、窯をもって製品を焼いて販売するゆう段階があるんですが、まだ腕がなかったから数が引けへんのですよ。こんなんしてたら永遠に窯も持てんなと思ってそれも辞めたら全く仕事が無くなった。とにかく自分の作品を作らなあかんと、神崎さんのところに行って鉢とか壺とか大きいものを作って公募展とか出してたらちょっとずつ通るようになった。師匠と同じもん作っていてもあかんと、そこから離れよう思って最初にやったのが楢灰シリーズなんです。そのへんからだんだん面白うなってきて、自分のもんができるようになったんです」と、若き日の情熱を語る。
そんなみのる窯を語る上で欠かせないのが、夫婦であり、窯の相棒である松川京子さんの存在だ。
「私は、生まれも育ちも信楽です。父親の親元は、代々の窯屋で、登窯があって、その横で育ったゆう感じですね。奈良の短大と信楽の窯業試験場で陶芸を勉強して、ろくろ師として信楽宗陶苑で働いていました。当時陶芸ブームで信楽にも見習いに来ている外人さんが普通にいた時代。私も海外で生活しようと準備していたんですが、渡米する十日前に母が急に亡くなって断念した。それで、世を儚んで結婚したんです(笑)。ただし、家も窯も何にもないし、あるのは借金だけやったね」と、京子さんは笑う。
今でこそ作家自らがギャラリーを構えて作品を売ることは当たり前のスタイルとなっているが、松川夫婦が始めた頃はまだ誰もやったことのない時代だった。
「1987年に、国道沿いの私の親の土地にみのる窯を作ったのですが、当時信楽は全て卸で、作家直売なんてなかったんです。最初は、問屋さんに売るための見本を展示しようと思ってここに並べたんですが、当の問屋さんからは、『自分で商売しよんのやんな』いうて、誰も来んようになって、商売できんようになったんです。それで、個展とかグループ展とか、伝統工芸展一本で出していたら、入選するようになって、デパートでも展覧会できるようになったんです」(京子氏)
やがて、慎ましくも作品作りに没頭する日々の中で、分かってきたこともある。
「ほんで私らもね、『あっ、置いといたら売れるんや』ということに気がついたんです。ただし、最初は値段もどう付けていいか分からなかったし、何喋っていいか分からなかったから、接客がかなわんかった。仕事してるやろ、お客が来ても実さんは『ほっとけ』って(笑)。常連のお客さんはね、『うちは見るところやけど、買うところは別や』いうて。何故かというと、店来ても誰も出てきやらへんし、値段聞いても分からへんからって(笑)」(京子氏)
訪れる人を優しく朗らかに包む今のご夫婦からは、想像もつかないような昔話だ。みのる窯のコンセプトは、「陶芸家夫婦が手作りのものを自分で作って自分で売ること」と、京子さん。それは35年間ずっと変わらなかったし、これからも永遠に変わることのないみのる窯のカラーだという。
「もともと賑わいのある焼き物の商売の土地やったから、信楽には誰が来てもいいという気風があって、非常に温かみのある人間が多いんです。何してもええし、誰にも文句いわれへん。これが現代の信楽焼ですいえば、それが信楽でええんです。何してもええから、私も楽なんです。
どんどん世の中が変わっていって、だんだん焼き物が売れんようになってもあれもしい、これもしいは、あんまり手を出さんようにしているんです。自分の思いついたことだけをして、それでご飯食べられたらゆうことなしですから。そやけどそれが幸いしてか、なんか知らんけどもうまいこと展開出来てる。みのる窯は、私と家内だけのもんしかないから」(実氏)
「守るもんはあれへんかったし、苦労とも感じなかったね。好きなことだけしよるからね。今も新作出来てるし、こんなありがたい仕事ないなあ、なかなか良かったなあと、今やっと分かったゆう感じです」(京子氏)
実さんの作風と、夫婦の話にすっかり魅了された一日。みのる窯を後にする頃には、信楽の町もとっぷりと日が暮れていて、見渡す山の上には、大きな、本当に大きな満月が、ほんのりと火色に染まってぽっかりと浮かんでいた。