古よりアイヌに伝わる樹皮の繊維で織るアットゥㇱ。気が遠くなるほどの時間と労力をかけて紡がれる糸織りとは。

前略、アイヌ文化が色濃く残る北海道平取町二部谷で、アイヌの伝統的な織物であるアットゥㇱの世界に触れたいあなたへ。

 二風谷のある平取(びらとり)町は北海道南部の日高地方にあり、豊かな自然とアイヌ文化の拠点の地域として広く知られている。この地を貫流する沙流川(さるがわ)の流域に暮らすアイヌの人々は、北海道内におけるアイヌ民族の中でも一つの有力な文化圏を形成してきたといわれる。とりわけ二風谷地区は、今も民族的伝承を継続していくという気風の強い土地柄で、工芸分野においては、「二部谷アットゥㇱ」が、「二風谷イタ」(木彫り)とともに伝統的工芸品に指定されており、担い手の育成にも力を入れている。 アットゥㇱは、オヒョウ等の樹皮の内皮から作った糸を用いて機織りされた反物のことをいい、水に強く、通気性に優れ、天然繊維としてはとても丈夫で、編み目の妙が織りなすざっくりとした独特な風合いがある。そのアットゥㇱの希有な担い手として期待されている柴田幸宏氏は、平取町アイヌ工芸伝承館(愛称:ウレㇱパ)において創作活動を行っている職人で、この地で修行を始めて6年目となる。

柴田さんが初期の頃織ったアットゥㇱだという

大半の時間と労力を糸作りに費やし、手で織られるアットゥㇱ

アットゥㇱは、アイヌ語でオヒョウ (att)の木の皮(rusi)という意味である。柴田さんによると、アイヌ語でアットゥㇱの最後のㇱは、発音するかしないかくらいで言い、昔は厚司織りとも言っていたらしいが、いまは原点回帰でアットゥㇱという正式名称で呼んでいるのだという。 「もともと北海道は、綿布がなかったので、アットゥㇱはそれ以前の技術です。ただしアイヌは文字を持っていなかったので、それがいつ頃から伝わっているものなのかは分かりません。博物館の展示物等から歴史を探るしかないのですが、江戸から明治にかけての北前船の時代には、本州との交易品に使われていたそうです。水はけがよくて、汗をかいても肌に張り付きにくくて乾きやすいので、本州には作業着として輸出していました。ただし北海道では、晴れ着なのですが・・・。当時から北海道全土で作られていました」(柴田氏) 「次に脚光を浴びるのが、昭和の観光ブームの時で、熊の木彫り同様にお土産品として売れました。織れば織るだけ買い取ってもらえたので、この辺では織っていない人はいないという程だったといいます。その頃の材料は、高価なオヒョウではなくてシナノキがよく使われていたそうです」(柴田氏) その観光ブームが去った後は、北海道全土にいた織り手たちは、それぞれ本業に戻ったが、ここ二部谷だけは、組合を作って技術を守った。商売としてアットゥㇱを織り続けているのは北海道でもこの地だけなのだという。 「明治以降、二部谷は多くの研究者が訪れるアイヌ文化研究の拠点となっていて、旅行家のイザベラ・バードも訪れています。医師で人類学者でもあるニール・ゴードン・マンローさんという人も二風谷へ移住して、研究成果を残しました。そういう蓄積があったからこそ二部谷アットゥㇱも証拠品が残っていて、百年以上の歴史を証明できたので伝統的工芸品に指定されたのだそうです」(柴田氏)。

 

柴田幸宏(Yukihiro Shibata)氏 / アットゥㇱ織り職人。1989年、北海道十勝・音更町生まれ。高校卒業後、函館の調理学校を経て、横浜で3年、滋賀県で7年、中華の料理人として働く。30歳を前にして、アットゥㇱ織りの職人になることを夢見て平取町に移住。地域おこし協力隊員として3年間、平取町の若手育成事業の2年間を経て、現在1年延長の6年目。平取町アイヌ工芸伝承館にて創作活動を行っている。柴田氏が手にしているのは、アットゥㇱの素材となる剥いで乾燥させたオヒョウの樹皮。着ているのは自分で作ったアットゥㇱの作務衣。

沙流川流域の森が育んだオヒョウから作るアットゥㇱ

アットゥㇱは、オヒョウ等の樹皮の内皮から作った糸で作られている。樹皮を採るのは、5〜6月頃が良い季節で、沙流川の上流の谷間のものが質が良いと言われたこともあったという。 「オヒョウの樹皮は、国有林と道有林に生えている木を組合として一本いくらで払い下げてもらっていて、2年おきに交互に採りに行きます。内皮が残るように慎重に剥がすのですが、これがけっこう難しいのです。採る場所が違うと品質もばらばらで、同じ山でも、斜面か平坦かで、植生も違うので正直剥いでみないことには分かりません。鹿が大好きな木なので、樹皮はもちろん植林した苗木も食べられてしまうこともあります」(柴田氏) 樹皮を剥いだら、糸にする内皮を取り出すために外の荒皮をていねいに剥がし、灰汁などを加えて釜で数時間煮て、やわらかくする。沼や温泉などに一週間程度漬ける方法もある。 そして、沢などできれいに洗ってぬめりを取って、乾燥させる。 「最初の工程で、樹皮を煮るんです。ただし、ぐずぐずにはしない。昔は木灰で煮た様ですが、いまは苛性ソーダを使っています。温泉に漬ける地域もありますが、この辺りは沼が多かったので、沼に漬けたそうです。ぬめりは、川で洗って、へらでこそげ落としています。流しでも洗えるのですが、ぬめりがすぐに詰まってしまう。干すのは保存をきかせるためで、使う時にはまた水に戻します。干している期間に、雨とかに当たっても、その方が色が均等になって良いのです」(柴田氏)

 

樹皮の糸に左の指で撚りをかける作業。
原料の糸(右)を機結びで繋ぎ、長い糸(左)に仕上げる

 

何層にもなっている内皮を、揉むようにして薄く剥がし、その内皮を指先を使って一定の粗さに裂き、その糸に撚りをかけながら、根気よく糸を繋いでいく。よほど向いている人でないと、続けることができない作業だ。 「内皮を裂いて、一本の糸にするために撚りをかけながら縛っていく。縛り方は、機結びで。横糸は撚りません、その方が織った時に締まるから。みなさん電動の撚り機を使いますが、私は足踏みの撚り機を使っています。それでも、手で撚った方が織りやすのです。やはり撚りが強すぎると、糸同士が絡んでしまう。ささくれ立つというか毛羽立つんですよ、糸自体が。手で撚るとそこまで絡まないので、織る時にサラサラというか、ひっかからないのです」(柴田氏)

 

柴田さんが使っている足踏み式の撚り機

 糸の染めは草木染め。「赤い色は茜。クロっぽい色は、お茶。茶色っぽい色は、栗のイガ等を使っています。色はむしろ揃えずに糸を繋いで、何色が何処にくるか分からない織りが楽しい。私、適当なんで(笑)」と柴田さん。

機織りは、まず糸玉から縦糸をのばし、数メートル離れた棒に回しかけ、もう一方を織り機に通していく。織機はシンプルな腰機で、自分の腰で緯糸を引っ張ったり緩めたりしながら、上下に分けたたて糸のあいだによこ糸を通す。横糸を通す1回ごとに縦糸も上下させて締めていく。 「腰に張っている縦糸を緩めた状態で、下糸をもって上糸を叩けば、下糸が上がる。上糸と下糸を分けた状態で、その間にへらを通す。これに水を打って織っていくのです。腰で張った状態でないと締まりません。腰の動きもあるし、手の動きもある。そうやって前にお織り進んでいくのです」(柴田氏) 「アットゥㇱは、木の皮が材料なのが一番の特徴ですね。それもただ糸を作ればいいといいわけではなくて、縛り目もごつかったら筬(おさ)に通らないし、ボコボコだし。ただ細すぎても糸が切れてしまうので、木の状態をみながらですね。木が薄かったら厚くそいで、撚りをかけたときにどれだけ糸が細くなるか想像しながら作らないと全部切れます。基本的には、糸作りから織りまで一人の職人が全部やります」(柴田氏)

 

 刀掛帯(エムㇱアッ)。アイヌの男性が儀礼の際に、刀を盛装として身につけるための帯。アットゥㇱで織りなす文様と刺繍が美しい。刺繍は、織ったものに綿の布地を当ててその上から刺繍している。渦巻き状の刺繍は、フクロウの目を文様にしたもの。フクロウは夜目がきくということで神聖視されている。

 

たて糸を吊して、帯を編む。

 

今は、反物を織っていない時期なのでと言いながら、柴田さんは帯の編みの実演を見せてくれた。 「文様編みは昨日の段階で終わっちゃったんで、いまは下の部分の単純なござ編みです。編み地には表と裏があります。紋様出す場合は、この場合は赤ですが、表に出したい糸を表にだしていきます」(柴田氏)

作り手を選ぶアットゥㇱの仕事

十勝出身の柴田さんは、中華の料理人として滋賀県で働いていた。ただ、30歳になる前に何か別の道を見つけたいと、「木の皮から織物を織ることがかっこいい」と憧れて、地域おこし協力隊の制度に応募して平取町に移住した。じつはアットゥㇱが女仕事であることは、二風谷に来るまで知らなかったという。 「師匠は、貝澤雪子さんと藤谷るみ子さん。いまお世話になっているのは雪子さん。最初に糸の作り方を教わったのはるみ子さん。一から十まで教えてくれる感じではない。いってみれば、この地域の方みんなが先生で、今はともかく昔は織っていたという人は多いので、ああした方がいい、こうした方がいいと口は出せるんです(笑)。糸をひらく(作る)という作業。これができないと、仕事にならない。最初の赴任する前に師匠の仕事のお手伝いに入った時に、「あなただったらできるかも」と言ってもらえて、それで自信がつきました。ただ、この二人が二風谷のツートップで、80代、70代。その下が、たまに織る人で、50代、60代。そこから一気に私まで下がる。真ん中っていないのです」(柴田氏) アットゥㇱは、人を選ぶ仕事だが、柴田さん自身は、織りは好きだし、糸作りもまったく苦にならない性分だという。手とり足とり教わったわけではなく、次々とやっていくうちに自分の糸の加減もわかってきたという。 「最初の3年間は、ずっと手で撚っていたので、糸の加減というのは、私自身のオリジナルです。撚り機が悪いわけでもないのですが、私としては、最初にやっていた手で撚った感じを出したいのです。撚り機ってすごく撚りがかかるので、ラーメンでいえばちじれ麺ですよね。私は、ストレート麺でいきたいのです(笑)。糸が真っ直ぐだと、ひっかからずにすっと上がるから、やっぱり織りやすい。これはやってみないとわからないですよね」

 アイヌの刀掛帯で、刀が下げられるのだったらギターも下げられるだろうと思いついて作ったギターストラップ。

 

 自転車好きが高じて作ったハンドルテープ

 

 財布と名刺ケース。皮は、北海道の鹿革

伝統的な美意識に加えて、独自の風をアットゥㇱに吹き込

では、作家としての柴田さんの表現は、どんな世界を追究していくのだろうか。 「私は、しっかり締めたい派です(笑)。やはり、男の織り方というか、締まった方が丈夫だから好みなのです。色は、私は染めてないほうが面白いかなと。染めていない糸というのは、織った時に、どこに色味がでてくるか分からない魅力があって、私はそれが好きですね」(柴田氏) 「作品としては、私は飾っておくものではなくて、使えるものを作りたい。作務衣とか、半纏とか。自転車のハンドルテープとかもこれで織っているのですが、高すぎるものになってしまって(笑)。ようは、自転車好きの自己満足ですね。握った感じもいいですよ、アットゥㇱでしか出せない質感ですから」(柴田氏)

 

 ウレㇱパは、第一線の工芸家の技術にふれることができる場である。[/caption]

柴田さんがいま一番押しの作品は、ジャケットとだという。その時の素材によって、縞の出方がそれぞれ異なり、アットゥㇱが持つ豊かな風合いを醸し出している。 「ジャケットは、織りに1ヵ月、糸作りは当初手で撚っていましたが、今は糸車を使用した糸撚りで数ヶ月程かかっています。アットゥㇱは、だんだん織れるようになると楽しいし、自分の作った糸だから、それがものになっていくのは嬉しいですね。アットゥㇱを織る使命というか、私はこの生地が凄く好きなので、長く続けていきたいと思います。織ってみたいという人は多いのですが、織り続けられる人はそうそういない」(柴田氏) と、その目は、この道を貫く自信と決意に満ちていた。

 

 ウレㇱパのある二風谷コタンには、アイヌの伝統的なチセ(家)が復元されている。

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