前略 括り、藍染、手織り。手の込んだ久留米絣(くるめがすり)の一連の技法に触れたいアナタへ
シンプルで和モダンな佇まいの「池田絣工房」の引き戸を開けると、ギャラリーショップには魅力ある商品が並び、大きなガラス張りの向こうでは、バタンバタンと軽快な音を響かせながら、織り子さん達が機(はた:糸を繊維に織りあげる機械)を織っている手仕事が一望できる。もともと“久留米絣”の産地では、出機(だしばた)さんと呼ばれる織り子が、自宅に機を持って絣を織り、「池田絣工房」のような機屋(はたや)が取りまとめるのが常だった。ただ、高齢化や住宅環境の変化で、織り子の数も年々減少。その中で「池田絣工房」では、織機を揃えて快適な作業環境を整えることで、織り子さんらを自らの工房に招き入れ、直接消費者に“久留米絣”の魅力を発信している。創業大正8年、100年余の歴史を誇る「池田絣工房」の4代目、池田大悟氏に“久留米絣”にかける思いを伺った。
幕末に久留米藩の特産物として生産奨励を受けた“久留米絣”
愛媛県の伊予絣(いよがすり)、広島県の備後絣(びんごがすり)とともに日本三大絣のひとつとしても名高い“久留米絣”は、江戸時代の終わり、今から約220年前に、井上伝(でん)という当時12〜13歳の米穀問屋(べいこくとんや)の娘が、古着の色あせたところに白い斑点が出来ていることに興味を持って布を解き、これをヒントに白糸を手括(てくく)りし、藍で染めて飛白(かすり)模様織物を作る方法を発見したとされている。糸を括ってから染めることで、その括った部分が染まらずに白く残り、糸を織っていくとこの部分が経(たて)糸と緯(よこ)糸で交差しながら模様として浮かび上がっていく。その模様を織りなす工夫が、なんとも魅力的で面白いところであり、最も複雑で難しいところでもある。
ただ、この地の機屋に生まれ育った池田氏自身が“久留米絣”を見ている感覚はこうだ。
「絣とは、先染めの織物の技法のことで、それは世界中にあって、有名なところでいうとインドネシアのバリ島でイカットと呼ばれているのもそうです。
久留米絣は、もともと井上伝さんという人が、自分自身の着物の色抜けした部分が綺麗だなって思って、糸をほどいていって、どういう仕組みでできているのかを文字通り紐解いた。それを逆転の発想で、糸の束を括って濃淡を付けて染めれば、この柄が再現できるんじゃないかという思いつきからできたものなんです。
つまり江戸時代の女の子が、自分が感じるかわいいを発見して、作ってみたら、巷に流行っちゃった、みたいな(笑)。もともと庶民の女の子が考えたカジュアルなおしゃれが、令和の今でも受け継がれているもの、という自分なりの理解をしています。他の伝統工芸と違うのが、やっぱり庶民発祥のものであって、誰でも楽しめるというのが久留米絣なのかなって思ってます」(池田氏)
だからこそ、いつまでもおしゃれであり続けることができるのが、“久留米絣”だと。
「例えば、これが絹だったりすると、高貴なもの過ぎて触ったこともないみたいな、なかなか庶民には扱えなかったりする。久留米絣は、みんなに使ってもらえるものです。ただ和装業界の中では、なかなか晴れ着としては扱ってもらえない。だから、早い段階で洋装や小物などの鋏(はさみ)を入れる製品に取り組んでいました。今の時代でもなんとかやっていけているのは、その点にあったと思っています」(池田氏)
つまり“久留米絣”は、女の子が作ったファッションなのだと池田氏はいう。戦時中には、もんぺ(もんぺ:袴の形をして足首の所でくくるようにした、ももひきに似た労働用の衣服)になってみんなに親しまれた。日用品に近いものが、その時々に流行して、産地の売れ筋になったのだと。
「戦後は、綿入れの半纏(はんてん)が売れて、その後がサロンエプロンが爆発的に売れた時代もあった。その時に財をなした機屋さんがけっこうあったみたいですよ」と笑う。
細かく工程が分業化されている“久留米絣”
“久留米絣”の生産は、30程の工程があって、すごく複雑にそれぞれが分業制になっているという。
「まずは、始まりのデザインのところから専業の絵描きさんがいます。その絵を織りで再現するには、糸が何本あって、経糸と緯糸がどういう関係になって、ここを括らないといけないみたいな、細かい計算をするわけです。その計算が終わると、糸を束ねて括るという重要な工程があるわけですが、その括り屋さんも分業で別にいるのです。次に糸を染めるのですが、それも本来は、紺屋(こうや)と言われる専業の職人さんがいます。昔は日本全国に、藍染めを専業としている職人が地域ごとにいて、主要な町には紺屋町、紺屋通りと呼ばれる地名が残っているんですね。そして、機織りをするのが出機さん。出機さんから、絣を集めて売る問屋さん。その他にも細かいちっちゃい作業もけっこう委託したりして産地が成り立っています」(池田氏)
ただし、最近では機屋さんの数も減ってきて、産地の分業が成り立たなくなってきているとのこと。外注できなくなりつつある仕事を、ある程度自社でできるような設備を整えていっているというのが、「池田絣工房」の現状なのだという。
「うちは自社で藍染めをやりますし、機織りや絵を描くこともたまにやります。どこの機屋さんも絵を描くくらいはやりますが、藍染めを持っているところは、20軒あるうちの7軒くらいですね。藍染めを持っていない機屋さんは、うちみたいなところに加工委託して、産地内で仕事を回しているのです」(池田氏)
それにしても、糸が染まらなかった部分を使って模様を作るのは分かるにしても、それがどうしたら計算通りに再現できるのだろうか。深く考えないとなかなか分からない…。
「なぜこんな柄になるかって? 確かに分かんないと思いますよ(笑)。簡単にいうと、37cm幅の中に緯糸を往復させるわけですが、糸の長さは決まっているので、25cm位の長さで一つの柄を作って、その連続が全体の柄になるのです。緯糸は、だいたい200から240往復してこの20何cmの長さの絣ができるのですが、一往復のこの部分に白が入ると柄ができますよという、図案を作るのです。柄を作る糸は、緯糸だけでやったり、経糸だけでやったり、緯と経と両方でやったり、いろんなパターンがあります。両方合わせるのはたしかに難しい、もうパニックですね。久留米絣は平織りといいって、ただ交差しているだけの一番シンプルな織り方です。リバーシブルといってもいいのですが、文字を柄にした時には、裏返すと文字も反転してしまいます」(池田氏)
細かく分業化された一つひとつの精度を高める、技を極める。
仕事で難しいところは何かと尋ねたところ、「全部難しい」と即答された。一つひとつの工程が全て専門性が求められる技術を要するので、それぞれを極めようとしても到底できないという。
「うちの父もそうですし、他の機屋さんでも『まだ分からない』とみんな未だに言っていますよ。分かって終わる機屋さんは、なかなかいなくて、難しいまんま終わっていくんだろうな。結局、全部工程としてつながっているんで、そのどこかをさぼちゃったり、どこかを一個間違うと、ずっと最後まで間違ったまま進むのです。どこかで調整はするのですが、全部完璧にするのは難しいですね」(池田氏)
20個もの藍瓶(あいがめ)を持つ、「池田絣工房」。池田氏自身も得意としているところは、この藍染めの工程だ。その手仕事の様子を見せていただいた。
「藍染めというのは、液体がしみこんで発色する。糸を括っているところの際まで染料を入れるために、藍に浸して絞った後、ほぐして叩くを繰り返す。叩いて染めていくせいで、余計な毛羽がそぎ落とされて、出来上がった時に絣がしなやかになる。一回では濃くならないので、ある程度濃く染めようとすると、何回か繰り返します。重要無形文化財クラスだと50〜60回、だいたい半日かけて染めます。紺の種類もたくさんあって、瓶の濃度がそれちがうので、それを上手に使って、狙う色に染めます。糸をしっかりと絞って扱ってあげると手を汚さないので、ベテランの人ほど手がきれいなんです」(池田氏)
藍瓶は、毎日かき混ぜて発酵を促し、きちんと管理していないといい色の状態が保てないのだという。
「藍瓶をかき混ぜる時には、見た目の色とか、音とか、匂いとか、たまに舐めて味をみたりしながら発酵の状態をチェックします。慣れない人がやると、けっこうコツンとやって瓶を割っちゃうこともある。その時はわからないけど、翌朝蓋を開けると半分くらいなくなってたりして大変です。気候が暖かすぎると発酵が進みすぎてすぐ腐っちゃうのですが、いまは寒くてなかなか発酵しないので瓶を温めているんです。この辺りはろうそくの原料の櫨(はぜ)の産地で、はぜの実を搾った残りかすをもらってきて、この中に仕込んで、じわじわ3日間ほどかけて燃えてくれるんです」(池田氏)
よく見ると、瓶は4つ一組に配置されていて、その真ん中に木の蓋がある。その中に暖房の火を置くのだそうだ。聞けば、瓶そのものが現在生産されていないため、瓶を入手するのも苦労するのだとか。
「もともとお米とか麦とか貯蔵するために使っていたものですから、農家さんからもらってきたり、廃業した同業者からもらい受けたり。たまに肥だめに使っていた瓶があるのですが、そういうのは藍が発酵しない。見た目が綺麗でも気をつけないと大変なことになります」と笑う。
重要無形文化財としての伝統を踏まえながらも、「池田絣工房」が目指すもの
“久留米絣”は、重要無形文化財に指定されている。綿織物では、唯一“久留米絣”だけだそうだ。
「年数が長ければいいというものでもなくて、技術が高くてなおかつ昔の製法を継承していることが必要で、国として重要なものであると認定されて初めて重要文化財になります。久留米絣の何が指定されているかというと、括り、藍染め、そして織りです。うちの場合は父と母が、技術保持者で、認定を受けています。」(池田氏)
「池田絣工房」は、今の産地の状況の中でどんなスタイルを志しているのだろうか。
「だいたい産地の工房は創業100年から150年くらいが多いです。うちは令和元年に創業百年を迎えました。曾祖父が創業しまして、一時期は機械織りもやっていたのですが、民芸ブームの時に手織りというところに特化して、父が高校生くらいの時からこのスタイルになったそうです。昔は、200軒近くの機屋がありましたが、今は20軒しかありません。問屋さんに卸す量もかなり減ってきているので、工房をこういう風にお店の装いにして、個人の方にお売りしたりしています」
もちろん、ものづくりの仕方も変わってきている。
「今、織り子の方に9名程来てもらっていますけど、本来は、出機さんが各家に織り機を持っていて、糸を配達して、できた製品を回収するというのが一般的でした。ですから織り子さんは、今でも独立していて、好きな時に出勤してきて、できた分だけお支払いをするというスタイルです。なぜ集まってもらっているかというと、マンション暮らしであったり、一戸建てでも織り機を持っていなかったり、機を織るスペースというのがなくなってしまっているので、エアコンもある工房に集まる方がいいから。機が壊れたりした時でも助け合いながらやれるとか、調子でないときでもお互いにアドバイスし合いながらやってもらっているのです」(池田氏)
さらに今後の展望を池田氏に聞いてみた。
「今、産地がすごく縮小していっているのですが、僕は、産地を維持していくというよりは、もっと大きくしたいと思っている。しっかりやれば、成り立つんですよということを外にちゃんと情報発信して、新しく参入してこられる方を増やすのが全体としての目標ですかね。というのは、イベントひとつやろうと思っても、軒数がないと、なかなか人を呼び込めない。同業者の競争は大事で、相乗効果があるんです」(池田氏)
昔は、たくさんの機屋があったので、全国津々浦々、売りに行っていたという“久留米絣”。今でも、例えば北海道の方に、「懐かしいね、久留米絣でしょ。昔よく着てました」なんていう声をもらうこともあるそうだ。
「ご先祖さんが日本中を駆けずり回って、売っていたんですね。本来それほどのパワーがある産地なので、少しでもその活気を取り戻したいなと思っています」と、池田氏は最後に力強く語ってくれた。
“久留米絣”の伝統技術を直接肌で感じたいと思ったアナタへ。
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