前略、江戸時代に将軍がお召しになったことに由来する「御召」の技法を駆使した、現代の桐生織の世界に触れたいアナタへ。
森秀織物株式会社は、1877年(明治10年)に初代森島秀が半農工で生糸や織物の生産に着手したことから始まった。当時は、手織足踏みの機であったが、1930年(昭和8年)に御召の機械製織に成功。一時期は時代を風靡した御召織であったが、1960年代には日本の全ての産地から姿を消した。森秀織物では、2001年以降その復活を試み、戦前から自社で保持していた八丁撚機の再稼働によって、「桐生御召織」の復元に成功。現在では御召の織り、染め、撚糸、湯のしまでの全工程を自社で一貫して制作している。
消えつつある古い染織技術を語り継ぐ織物参考館「柴」(ゆかり)
「西の西陣、東の桐生」と並び称される絹織物の一大産地、桐生。JR桐生駅からレトロな雰囲気が溢れる商店街を通り越して程なくすると、のこぎり屋根の工場が現れる。ここが、森秀織物株式会社が運営している織物参考館「柴」。建屋の奥は、現在も織機工場として稼働している。社長の長谷川博光さんに案内されて中に入ると、床張りの広大な工場内は、わらかで優しい光に包まれていた。
年々減少しているとはいえ、桐生には多数ののこぎり屋根工場が存在し、産業遺産として評価も高い。
「のこぎり屋根は、ギザギザとした形になっていますけど、この形の大きな理由は、光と音です。光は、天窓から明るい光を取り入れているのですが、強い光は入らないように全て真北を向いています。工場内には、照明がないので陽が落ちたら操業しません。音は、三角形に音と音が乱反射して、人間の耳を守っているのです。天井に板を張ってみたら、働いていた従業員さんがみんな難聴になってしまったという話があるくらい、この形でないと、音が工場の中で籠もってしまって、とてもうるさいのです。窓のところには、小さな鳥が出入りできるくらいの隙間があって、通気が出来たり、音を逃がしたりしています。このように、のこぎり屋根は、とても理にかなった作りなのですが、唯一の欠点が、空調がほとんどきかないことです。夏場は最悪な状態で、上にある温度計は50〜60度を指すこともあるのです(笑)」(長谷川氏)
ここまで大きく、そして文化財としての価値が高い工場をきちんと保存してきたことには頭が下がる思いだ。
「桐生の機屋は、時代を追って儲かるごとに工場を建て増ししてきました。壁を壊して継ぎ足していくのです。うちの工場は、一棟ごと、つまり一つの屋根ごとにだいたい20年くらい年代がずれていて、大工さんの作りも違います。参考館入り口すぐの棟が一番新しくて昭和40年代、ひとつ奥が20年代、さらに奥は戦前、もっと奥の染め場がある棟は、大正、明治時代の建屋です。おわかりのように昭和40年代以降は、新しい工場は建てていません。石の上に柱をのせる伝統的な建築工法なので、地震には強くて、東日本大震災の時でも8センチくらいずれただけでびくともしませんでした。よく木造の工場が百年以上も建っているなぁと思います」(長谷川氏)
織物参考館に展示されている織機は、その全てが実際に動かすことができるのがコンセプトだという。
「昔は、御召という着物地を織って年間何万反と出荷していたのですが、現在では着物の需要が少なくなっているので、織物カレンダーを織って世界中に輸出したりとか、ファブリックの小物を作ったりしています。また、織物参考館の入館者を対象として、手織り体験や染め体験等をおこなって、文化財の建物を有効活用しています。日本が戦後復興していく過程で、だんだん着物が着られなくなって、桐生でものこぎり屋根が行き詰まってきた昭和40年代頃には廃業する機屋も多かったのです。うちもその頃には、洋装文化を取り入れて、インテリアファブリックなどの織物も織り始めたと聞いています。そんな憂き目にあったのが先代の社長で、その頃には、第二工場も稼働していないくらいの生産率に落ち込んでいて、それまでは従業員が200人くらいいたのですが、ほとんど辞めたそうです。先代の社長の時代に、先々代の職人さんはみんないなくなったそうです。織物参考館は昭和56年にオープンしました。現在は、第一工場には、力織機が6台動いています。手織りの織機は、参考館にある機を含めて、10台くらいあるので、それで生産しています」(長谷川氏)
桐生の地場産業を守り抜くために、長谷川さんは日夜奮闘している。
「着物地でなくても、小物でもやっていかないと、ものづくりというのは、続けていかないとノウハウが、職人も含めてなくなってしまいます。手が空いてしまうと技術も人材も流出してしまうので、何かは作り続けなくてはいけない。職人はもっと着物を織りたいという気持ちもあるのでしょうが、注文がなければ織れないわけですからやっていくしかない。
それと、糸を消費しなくてはいけないという使命が我々にはあるのです。絹糸自体が野菜と一緒で生ものですから、毎年群馬県で生産されています。これは、誰かが買い上げないと群馬の養蚕農家が駄目になってしまう。せっかく、群馬県でやっている貴重な国産シルクの産業を途絶えさせる訳にはいかない。逆にそれで考えたのが、群馬の絹糸を使った御召のストール、小物類です。江戸時代から、御召の余った生地を職人が自分の身体を綺麗にするために使っていたということにヒントを得て、御召の垢すりも手織りで作っています。水に入れると糊が落ちて縮むので、その縮みのボコボコを利用したシルクのボディタオルで、人気の商品です。作ったからには売らないといけない、そんな思いで操業しているのです」
御召とは、あらかじめ精錬、染色した糸を織る織物で、八丁強撚糸を緯糸に使うため、生地には特長的なしぼ(凹凸感)が出る。その高級な質感から、江戸時代には、11代将軍徳川家斉(いえなり)がこれを好んで着用し、高貴な方の御召物を略して「御召」という名がついたといわれている。
「御召は、桐生から始まって江戸幕府に献上していた由緒ある着物地です。昔は、御召3反とか、嫁入り道具に使われるくらいポピュラーな織物だったのですが、今は御召を織っている工房が一軒も無くなってしまいました。うちも一旦は、織るのを止めてしまっていたのですが、歌舞伎の松竹さんや、人形浄瑠璃の文楽さんから「どこにもないので復活して欲しい」と依頼が来たのです。文楽の人間国宝・吉田簑助さんが現役の頃は、世田谷の骨董市とかを回って、50年、百年前の御召の古着を見つけて人形の仕立てに使っていたそうで、それがもう限界だと話がきたのです。そこで群馬県とも相談して、群馬産の絹糸を使って5年くらい前に織り始めたのです。というのは、御召は、八丁撚糸という糸に強い撚りをかける機械がないとそもそも出来ないのですが、うちは参考館をやっているので、捨てずに何台も残っていました。それで、昔の技法を試行錯誤の上、御召を復活させることができたのです」(長谷川氏)
御召の魅力について語る時、柔和な長谷川さんの表情がさらに緩んで早口になった。
「帯も着物もデザインとしては、縦縞とか格子とかあるのですが、どちらかというとテクニックとか生地の風合いが桐生織の魅力です。柄そのものはあまり固定化されず、自由な発想で織られています。御召は、絹なのでツルツルはしているけど、やっぱりしぼが特徴です。生地自体もまっすぐな縞ではなくて、ちょっとよろける感じの縞で、緯糸がぐっと縮んでいるので、ドレープが出たときに玉虫色の光沢感が出てくるのです。そういうのは、普通の染めの着物では出ない表情で、それが江戸文化の着物なのです」(長谷川氏)
東京で会社員をしていた長谷川さんが職人に転じ、複雑な織機を操る技術を習得するにはかなりの苦労があったのではないかと聞いてみた。
「ものづくり自体は大好きなので、苦労したということは思わないのですが、マニュアルとか、教本とかが全く無い世界なので、そこは苦労しました。自分の先輩とか上司にあたる職人さんとかに、何を訊いても、うまくは教えてくれないわけです。それは別に意地悪しているわけではなくて、その方自身も教えられてこなかったし、教えるという文化自体がなかったわけですから、伝える言葉がないわけです。ですから、なんとなく自分で考えてやるしかない。ちょっとアドバイスもらう程度で、自分で見て、真似をするくらいしか方法がないのです。
織りの技術というものは、ずっと企業秘密にされていて、職人さんがその技術をわざと残さないで来たということがあるので、連綿と引き継がれてきた技術というのは、その工房が無くなった瞬間にロストテクノロジーになってしまう。ですから極端なことを言うと、森秀織物とか、○○織物という会社がなくなった時点で、桐生に何百年も続いてきた機織りのノウハウそのものが消滅するわけです。その恐ろしさは、日々感じています。自分が生きているうちは織り続けますが、自分より若い世代の人間がやりたいと言わなければなくなっちゃうだろうなとは思っています」(長谷川氏)
生産が縮小する程、作業は多様化して、手間が増える。それも職人の喜びにかえる長谷川さん。
「和装の地場産業の世界は、およそ20社、30人の職人さんがいると、だいたい一つの着物になります。それが本来のスタンダードなのですが、需要そのものが縮小して、分業制が成り立たなくなったので、うちも残念ながらほとんどの工程を自社の中で行っています。もちろん養蚕は農家、製糸は製糸工場がやってくれていますが、そこから先の撚糸工程から始まって、染色、整経、整理、緯糸を撚ったり、織りのデータを作ったりなどは全部社内でやっています。それ自体は、ものづくりをする者としてはうれしいことなのですが、経営者からするとすごく効率が悪くて、ひとつのものを作るのに膨大な手間と時間がかかっているのです。ただ、思い通りのすごく品質いいものができるのは確かなのですが。(笑)」(長谷川氏)
「これからどんどん、和の世界は取り返せるマーケットは取り返したいし、開拓できる部分は開拓していきたい」と語る長谷川さん。新しい分野への挑戦とともに、着物を着てみたいという個別のお客様にも対応する心配りを見せている。
「今の時代、お仕立て屋さんはいても部材の在庫がないんですよ。着物をつくりたいけど、どうしていいか分からないというお客さんが割と多いのですが、帰って下さいとは言えないので、お時間はいただきますけど一からご注文の着物つくりますよ、というスタイルで対応しています。そんな仕事を受けると、いろんな手配で単純に自分が大変なことになるのですが、うちの御召の着物をきちんと着ていただくためには、直接お客さんの要望を聞きながら最初から最後までアフターケアした方が、その文化を楽しく味わっていただけます。御召しの仕立てをよく知っている先生と、御召の生地をよく知っている自分が、いろんな部材を掛け合わせて作った方が、やっぱりいいものができるのです。御召って本当にいいねってみなさん言ってくれるので、そういう意味でも面倒見るしかないなって思っています」(長谷川氏)