前略、八百年も前に鍛えられた鉄の美しさが、今もなお魅惑の輝きを放つ日本刀の世界。その究極の鍛錬技術と精神性に触れたいあなたへ。
優れた武器であると同時に卓越した芸術であるといわれる日本刀。現在の日本では、刀工として国の許可を得た者でないと作ることはできない。刀工になるには、作刀承認をすでに受けている刀工のもとで5年以上の修行をし、文化庁の行う美術刀剣刀匠技術保存研修会に修了する必要があり、現在全国に200人ほどの刀工が日夜作刀に励んでいるという。埼玉県神川町に自らの鍛錬場を構える下島房宙さんもその一人。屈強な体躯と淀みのない語り口で、刀鍛冶の伝統技術とその心構えを聞いた。
横座と呼ばれるいつもの定位置に腰を下ろして、まずは鍛錬場の解説から房宙さんの話は始まった。ここは、炭を使って赤めた鉄を、鎚で叩いて練る場所。材料の玉鋼は、そのまま伸ばしていっても脆いため、練る作業が必要なのだという。すなわち日本刀づくりとは、金属そのものを作る作業。何度も叩いては折り返し、また叩くので、玉鋼を練ることを折り返し鍛錬という。
「火床の前のこの場所を横座といって、全ての鍛錬作業をコントロールする人が入ります。私の場合は立って作業する立ち火床です。赤めた鉄をここで、手槌で叩くか、機械式ハンマーで叩きます。先手(さきて)と呼ばれる大鎚で叩く役がいる場合、材料をどのように赤めて、どのタイミングで打つかは、全て横手に任せられていて、先手の人は、金床の真ん中だけを水平に叩くことに専念します。叩きたい場所、早さ、強さは、口ではなくて全て横手が相鎚で表現して、交互に叩いてリズムをとります。修行に入ると、師匠が横座に入るのが通例ですが、弟子が横座に入った場合には、横手の言うことには師匠であっても従わなくてはいけないというルールはある。でも実際は、僕の言うことで師匠が動くことはなかったですけどね。(笑)」(房宙氏)
燃料は、松の炭。鞴(ふいご)で風を送ると瞬く間に燃焼し、風を止めると直ぐに弱くなるので、温度の調整がしやすいのだという。コークスは使わないのでしょうかと水を向けると、1300度以上の高温になるとコークスに含まれている不純物が玉鋼の中に入り込んでしまうので、持ちはいいが、不純物が少ない木炭を使うのだという。
風を送って火床の温度を上げるのが鞴の役目。火力の調整がしやすい道具で、江戸時代の鞴を手に入れて自分で修理して使っているという。
「側面が杉の正目一枚板で作ってあって、今では絶対手に入らない代物。ただのベニヤ板で作ったものでは、重く扱いにくくてどうしても駄目なんです」(房宙氏)
そもそも何故日本刀の鉄は何度も叩いて練るのかを問うと、それには玉鋼という日本古来の鉄ことから知る必要があるという。日本刀の材料になる鉄は、鉄鉱石から溶鉱炉で精製される鉄ではなく、真砂砂鉄という良質の砂鉄から「たたら吹き」と呼ばれる木炭を燃料にした製鉄法で作られる玉鋼という鉄。玉鋼には、炭素や酸素を多く含んだ柔らかい善玉の不純物が多く、折り返し鍛錬によってこの不純物を叩き出す工程によって、より粘りがあって硬い素材になるという。たたらは、現在は島根県で年に数回だけ稼働している。
「たたらは、幅2×4メートル位の炉で、4日間ぶっ通して炭を燃やし続けます。映画のもののけ姫にも出てきますね。上から砂鉄を入れて、たくさんの炭を入れて、鞴で風を送って温度をコントロールしながら燃やし続けると、ケラと呼ばれる鉄が下にたまって流れてくる。その過程で炭素が含まれるのですが、それが重要なのです」(房宙氏)
たたらは、明治時代以降、廃刀令で一時は絶滅しかかるが、日本刀の製造を受け継いでいくために復活したのだという。
「玉鋼は、品質が均一ではなく、部位によって炭素の含有量にばらつきがある。そのため、最初は、火床に入れて赤めて潰して、せんべい状にするのです。次に、それを800度くらいに赤めて、水に入れて焼き入れをすると、炭素が多い部位の鉄は急激に冷やされて硬くなるので、強い衝撃を当てるとパキッと割れるんです。炭素が少ないと割れにくい。そうやって、割って2〜3㎝のチップにして、割れ方とか、割れた断面を見て、同じ硬さ同士のチップを集めて、5段階位の硬さの鉄に分別するのです」(房宙氏)
同じ硬さの鉄を集めて、てこ棒の上に積み、炎の中に入れて1300度にするとスラグが出てくるので、叩いて一つの塊にする。そうしてやっと日本刀の材料となる鉄が出来上がる。
チップの分別だけでも一週間はかかる。刀鍛冶は、こんな地味な作業の繰り返しで、脱落していった兄弟弟子も数多く見て来たという。
房宙さんが、日本刀に魅了されたのは、中学一年の時に社会科見学で、上野の国立博物館を訪れたのがきっかけ。武器マニアの少年ではあったが、第二次世界大戦時代の戦車は、真っ赤にさびてボロボロになっているのにも関わらず、細くて長い800年前の刀が、いまさっき出来たばかりのように、綺麗に残っていることに衝撃を受けた。高校一年の夏休みに、岐阜の関市に訪ねて行ったのが、師匠の二十五代藤原兼房氏との出会い。見学に来ただけのつもりだったが、弟子入り出来ることを知って胸が高鳴った。2年半後の卒業式が終わって、そのまま岐阜に来たのはよかったが、そこからが試練の始まりだったという。
「正直、しんどかったですよ。修行に入ると、3年間は刀のことしか考えるなと言われていたけど、結局5年間はまったく自由がなかった。住む場所と食べるものは師匠が用意してくれたが、知り合いも誰もいない町で、仕事でも生活でも怒られっぱなしの毎日でした。四六時中誰かに監視されているような恐怖心が募って夜も眠れず、体重が20キロも減った。僕に内緒で、師匠の奥さまから連絡を受けて尋ねて来た両親が、僕を見た時の表情が忘れられない。
何で母親がこんな悲しい顔をして僕を見るのだろうと思って、ハッとしました。自分が望んでここに来たことを忘れていたのです。親にこんな目をさせてはいけないと考え方を変えて、少しずつ気持ちや態度を改めていった。それが、最初の3ヶ月。そして1年目、次に3年目のタイミングで、もう一歩で挫折しそうなところを踏みとどまりながら進んできました」(房宙氏)
弟子に入っても3分の2は辞めていく。国の認可研修会に誰も最後まで修了することができない年もある。認可を取って独立した後でもその3分の2は廃業していくという。本当に厳しい世界だ。
「修行時代の8年間は、無収入でした。独立して自分の仕事場を持たないと食っていけないと、そこで初めて人生の中でお金は大切だということに気がついたのです。それまで、目をかけてくれたお客さんから発注をもらって、『今はまだ作れないので、自分の仕事場ができたらご連絡させてもらいます』と返答したら、『いや、お金は今が必要なんでしょ』と現金を渡された。『作品は後で作ればいいから』と。そういう方々がいて、僕は支えられてきた。だから、その気持ちに応えるためにもいい作品を作り続けなければいけないのです」(房宙氏)
さて、ここからが、刀鍛冶の真骨頂とでも呼ぶべき折り返し鍛錬だ。鍛錬の目的は、鋼を何度も延ばしては折り返し、粘りを持たせて強度を増し、不純物を叩き出し、炭素量を一定にすることにある。
「鉄を赤めて1300度にすると、玉鋼からスラグという自然の接着剤のようなものが滲み出てきます。そのタイミングで叩くと、2層の鉄がくっつく。それを叩いて伸ばしていって、切り方を入れて、折り返して、またくっつける。刀鍛冶の大事なポイントは「沸かし」と呼ばれていて、芯まで均等に1300度に熱することで、目で見て経験と勘で温度を判断すること。一瞬でもためらったり、もたついたりしたらどんどん温度が下がってしまいます。炭素量が多い硬い鉄だと13〜15回くらい練り(折り返して叩く)、軟らかい鉄は8〜10回くらい練る。水飴と同じで、鉄も練ることによって、少しずつ伸びと粘りが出きて、不純物が出て、より純度の高い鉄ができ上がる」(房宙氏)
日本刀には、「折れず曲がらずよく切れる」といわれる言葉があるが、その秘密は、曲がらない硬い鉄と、折れない軟らかい鉄を組み合わせて造り込んでいることにある。
「それぞれ練ったブロック毎に硬さの違う玉鋼を用意しています。中心の餡子になるのは柔らかい心鉄(しんがね)で、その両サイドを硬い鉄で包み、背中側にその中間の硬さの鉄、刃先に最も硬い鋼をちょうど金太郎飴のように組み合わせます。それらをくっつけたら、均等に絞りながら一本の棒に細めていきます。綺麗に叩いて、外側のまんじゅうと内側の餡子の状態を保ちながら、一日ぐらいかけて、刀身の長さまで打ち伸ばします」(房宙氏)
刀の原型が出来上がると、日本刀の立体的な姿を作り出していく火造(ひづくり)に入る。
「火造の最中は、刀はまだ反らせず、できるだけ真っ直ぐな状態で叩きます。鎬(しのぎ)と呼ばれている線を残して、ヤスリで成形します」(房宙氏)
そして、土置き、焼き入れとなる。焼きの入った部分は、硬くキラキラ光る鋼に組織が変化して、それが刃文となる。焼き入れをすると、その急激な温度変化で、自然に美しい反りが生まれる。
「焼きを入れたい場所には土を薄く塗り、入れたくないところには厚く塗る。一ミリ、2ミリの差。土が薄い部分は、すぐに水を吸い込んで急激に冷やされる。厚く塗ってある刃と逆の背中側は、水がしみこむのに時間がかかるので、ゆっくり冷える。
焼入れをすると、薄く塗ってある場所と無い場所の境目に、刃文と呼ばれる美しい日本刀独特の模様が現れる。それを想定して、焼き刃土で描くのです。
焼き入れの温度は、800度。赤めた刀身の色で判断する。光を見る条件をいつも一定にするため、シャッターを下ろして外光を遮断したうえで、色を見る。温度を上げすぎると、反りすぎて割れる。温度が低すぎると、焼きが入らない。その加減が難しい」(房宙氏)
水を張った焼き刃舟。
「焼き入れが終わると、砥石で刃先を薄く研いでいきます。そして、最後に銘を入れます。作刀は持つ人の命にかかわるものであるから、その責任をとって作者の名前を入れるというルールができたといいます。研師さんが、最後に仕上げるのですが、この持つ部分だけは研いだりしないので、僕たちはここが残ることを意識しながら、名前を丁寧に刻んで仕上げます。
研師、鎺(はばき)師、鞘(さや)師らの職人さんがいて、組み合わせながら完成します」(房宙氏)
「日本刀は、実際に持ってみてなんぼ」という房宙さんに、実際に刀を持たせていただいた。確かに生半可な気持ちでは持つことは許されないという心構えに自ずとなる。ずっしりとした重みと凄み、その美しさを体感し、自分の所作が正される。
「日本刀って、千年も前からあって、その千年前のものが普通に残っていることが奇跡なんですよ。何十年、何百年の単位で、代々家宝として受け継がれている家庭もあります。葬儀の時、お守り刀として荼毘に伏される前のご遺体の上に置き、そして次の当主に受け継いでいく。武家は、刀を、ただ人を殺める道具ではなく、神にも近い存在となって、その人と家族、家を守ってくれる家宝であると考えていました。そういう背景があるからこそ、日本刀作りの文化を絶やしてはいけないという思いで、日々鍛錬を重ねているのです」(房宙氏)
その美意識の向かう先は何なのだろうか。
「昔からの名工が残したもので、近づきたいと思っている作品は確かにあります。江戸後期の源清麿という刀鍛冶がいて、大切っ先で、迫力ある作風が特徴。見ただけで力強さを感じて、守ってくれるという安心感がある。師匠もその作風が好みで、僕も学んでいるうちに、ちょっとごつい感じの作風が好きになりました。
ただ、刀業界の中では、どこかの作風を狙って、より近づけていくというのが一般的なやり方なのですが、僕は昔の作風を真似るつもりはありません。自分がいいと思っている世界を自分なりの表現でやっていきたいと思っています」(房宙氏)
使われないことこそ最高の美徳。そのためにも手間暇を惜しまない最高の技術で作刀し、最高の美意識を持って受け継いでいく。「刀を持つか持たないかは別のこととして、そういう文化があるということを今の日本人には知っていていただきたい」という房宙さんだった。