前略、新庄戸沢藩の御用窯として天保12年(1841)の開窯以来、歴代の涌井弥瓶に受け継がれてきた、日常使いの陶器の美に触れたいあなたへ
山形新幹線の終着駅がある山形県新庄市は、最上地方の中心都市であり、日本でも屈指の豪雪地域として知られている。江戸時代は新庄藩が置かれ、戸沢氏6万石の城下町であり、羽州街道の宿場町として栄え、最上川水運の拠点ともなっていた。この地に代々窯元を構える新庄東山焼は、敷地内の豊富な陶土と、出羽の雪のかげりの色といわれる「なまこ釉」をはじめ、「鉄釉」、「そば釉」など、種々の家伝の釉薬を用い、7代に渡って作陶を続けている。
現当主の六代目涌井弥瓶氏に東山焼の歴史とその創作についてお話を伺った。
「元々うちの窯が始まったのは、1841年で、江戸の末期です。初代の涌井弥兵衛は、生まれは新潟県で、福島の大堀相馬焼、山形の平清水焼と、東北各地で修行して、秋田の寺内焼の頭領になったときには、30そこそこだったというから腕は良かったのだと思います。その後、秋田から京都へさらに修行しようと45で上洛しようとした途中、新庄戸沢藩の関所で、工芸で産業を興したいと考えていた藩より、是非新庄に留まって欲しいと請われたそうです」(涌井氏)
そして弥兵衛は、新庄藩内での土探しから始めたという。東山焼の東山とは山形県新庄市東部の丘陵地帯の通称で、集落の地質は厚い粘土層で覆われている。
「それでは、一年間やってみましょうということで、初代はこの地で試し焼きを繰り返したといいます。東山一帯は、古くは縄文遺跡もあり、粘土が出るのは藩も知っていて、瓦を作っていたのです。一年間試験をして焼いた中で、なかなかここの土は良いとなり、京都に行くのを断念して、戸沢藩瓦師として三人扶持九俵にて召抱えられ、この地に新庄弥瓶窯を設立したのです」(涌井氏)
6歳より父について陶業を学んだといわれる二代弥瓶は、明治5年家督を相続。父より相伝の唐津流丸窯の技術に加えて、美濃流鞘窯の技術を導入したといわれる。
「初代と二代、初代は磁器を作りたかったのです。親子であちこち回って、領内で陶石を探していて、明治になってから金山町の近くで見つけて焼いたけど、初代は完成を見る前に他界しています。ただ、明治の近代化で、鉄道が普及してものが入って来るようになったので、磁器の生産は止めています。磁器の研究に財を使い果たしたそうです」(涌井氏)。
二代弥瓶の次男、三代弥瓶は、磁器の製造を廃止し、東山の陶土の特性を生かした日用雑器の土焼を行い、今日の東山焼の基礎を築いた。民藝運動の柳宗悦は、その仕事を絶賛したという。
「柳宗悦は、三つ足が付いたうちの土鍋が日本で最も美しいと言ったそうです。なまこ釉の美しいブルーで登り窯で焼いてあって、蓋が鍋敷きになるという工夫がある。ただ、三つ足は、本当のことを言うと、釉薬をかけるときに持つために必要で付けてあるもの。でも一応デザインだと言っています。(笑)」(涌井氏)
四代弥瓶は、戦中戦後の激変の中で、益子、笠間において研修するとともに、河井寛次郎、柳宗悦の指導を受け、東山焼新庄窯の名を不動のものとしたという。
「四代目は、代々受け継いだものを踏襲して作りながら、地域のためにと土管の製造にも着手しました。その製造方法を笠間の土管製造業者に教えを請いに行ったところ相手にされず、思いあまった四代目は、「もし願いがかなったなら一年間の売り上げを全部寄進する」と笠間稲荷に願を掛けたそうです。実際それが実現した年の暮れ、一円も手を付けていなかった年間売り上げの現金をリュックに詰めて、交通費を借りて笠間稲荷に詣でて寄進したそうです。宮司さんもびっくりしたでしょうね。今でも、涌井家は、笠間稲荷に毎年参拝に行っています」(涌井氏)
学校の教師だった五代弥瓶は、涌井家に婿養子に入り、それまでは経験と勘の目分量であった技術を科学的に行いたいと、土作りから釉薬づくり、窯など全てを分析し、窯業試験場に通って陶芸技術の近代化を図った。そしていよいよ六代弥瓶となるが、六代目も婿養子だという。
「もともと東京で、ラジオ番組の制作をしていたのですが、うちの奥さんが一人娘だったので婿養子に入ることになった。陶芸なんてできるのかと不安があったのですが、まずは一年間はやってみようと。最初は同じものを千個ずつ作ると自分に課題を課した。ぐい呑み、湯飲み、皿、徳利とやっていくうちに、一日に1個、2個しかできなかったものが、20個、50個とできるようになり、腕が上がってくるのが楽しくなった。この敷地内から数ヶ月間も全く出ることなく作り続けるということが何周期もあって、修行に没頭しました。基本的なことは、四代目の弟、三郎さんから教わりました」(涌井氏)
血の滲むような修行を経て、六代目が個展や展覧会で頭角を現す機会は思いのほか早く訪れた。このように時代と共に変容を遂げながら受け継がれていく東山焼であるが、六代目のコンセプトは、「使いやすさと面白さ」であるという。
「やっぱり、用の美です。飾っておくものではないので、使いやすいのが大事。それを追求すると、自ずと美しくなっていくのです。例えば、急須の取手の角度は、85度。90度だと回ってしまうから85度が決まり事です。急須も徳利も醤油差しも、注ぎ口のキレにこだわっている。醤油差しの最後の一滴は、中に戻るようになっているから垂れない。穴の太さとか結構微妙なんですよ」(涌井氏)
六代目が焼く器には、その全てにストーリーが満ちあふれている。その遊び心が次の七代目に受け継がれ、陶器の金魚鉢など、新しい世界を生み出している。「私は私、息子は息子、だから焼き物はいつまでたっても面白い」そう言って、六代目は微笑んだ。