前略、手に馴染む究極の道具を作り続ける、刃物職人の技に触れたいアナタへ
兵庫県南西部に位置する小野市は、剃刀(かみそり)・鋏(はさみ)・包丁類の家庭刃物や鎌(かま)などの一大産地である。
播州のこの地に根ざした刃物産業の歴史は古く、約250年前の江戸時代には既に存在していた。また、刃物の素材となる鋼をつくる鍛冶屋産業は16世紀初頭にはすでに開始していたとされる。しかしながら、あまりにも身近すぎる生活道具であるがゆえか、刃物づくりの伝統の技が、量産化と価格競争にのまれて継承されず、何もしなければ消えてゆこうとしているのも現実だ。
職人の手で作られる刃物の中に生活道具としての究極に洗練された美を発見し、それらを「播州刃物」として世界ブランドへと昇華させるとともに、職人の後継者育成に取り組んでいるのが、デザイナーの小林新也さん。自らのデザイン事務所(合同会社シーラカンス食堂)に工場を併設し、職人を養成するMUJUN WORKSHOPを主宰する。小林さんの地場産業存続にかける思いを聞いた。
日本にしかない究極の職人技、「総火造り鍛造」
鈍く光る細長い鉄の丸棒と、その上に2、3㎝長の小さな鉄片を置き、挨拶も早々に小林さんは語り出した。
「下の棒が柔らかい鉄、上に乗っているのは炭素が多くて硬い鋼(はがね)です。これを一緒に火で熱して金槌で叩いて鍛接することで刃物の素材を作るのですが、ここからどんな刃物でも作れるのです。包丁にしたかったら包丁のサイズに、握り鋏にしたかったらその形にすればいい。鍛接した鋼材は、820度程に熱して水や油で冷やして焼き入れをすると、炭素の多い鋼だけがめっちゃ硬くなるという特性があるんです。硬くなるかわりに脆くなるのですが、鉄と元素レベルでくっついているおかげで、粘りが出るので割れることはありません。鉛筆が、硬くて折れやすい芯を木材で守っているのと同じですね。しかもコスト的にも下げられるし、後で研ぎやすいのでメンテナンスもずっとできる。これ以上無いパーフェクトなデザイン。ただし残念なことに、この「総火造り鍛造」の技術をもった職人が、この刃物産地といえどももう数名しかおられないんです」(小林氏)
理屈を説明するのは簡単だが、小林さんは経験してみないと分からない、その道の奥深さを口にする。
「まずね、うまくくっつかないんですよ。鍛接剤という粉を振りかけて叩くのですが、それも自分で作る。同じ調合でも、ものによって全然結果が違う。金槌ひとつとっても、打てているように見えて、実はあっちいったりこっちいったり。『まずは十年や』、みたいなことは誰もが言うし、熟練の職人さんであればあるほど『未だに勉強や』と、口を揃える」(小林氏)
鉄の棒の上に乗せた鋼(右)と、それを金槌で打って鍛接した鋼材(左)。
いってみれば、昔の本当の鍛冶屋さんはそれこそ砂鉄でもどんな刃物でも作ることができた。ただし、この地の刃物産業が近代化するとともに分業化して、握り鋏、裁ち鋏、剪定鋏と、それぞれの職人がジャンルごとに分かれていったという。大量生産をするための合理化をした結果、総火造り鍛造の工程を省いて、鉄と鋼がすでに圧延されている利器材と呼ばれる鋼材を仕入れて加工生産する業態が主になっている。ただし、刃物生産量が減少し、利器材を加工する職人も減ってきているため、いまでは利器材のメーカーも廃業の危機にある。
「裁ち鋏を量産している産地はここだけなんですが、一昨年、その裁ち鋏の材料屋が辞めた。次に握り鋏の材料屋が辞めるとなると、総火造り鍛造の技術を持った職人以外は、全員仕事がなくなってしまうかもしれない。でもこの技術をもった握り鋏の職人さんはもう一人しかいないんです。その水池長弥(みずいけおさみ)さんに、僕たちは弟子を取ることを頼んで、2015年に弟子入りが実現できた。それから6年目になりますが、2人目、3人目を頼んでも、『自分も70代でこれ以上無理や』言うんです。
しかたなくここに工場(MUJUN WORKSHOP)を作って、デザイン事務所として職人を目指す若手(現在2人)に外注費を払いながら研修してもらっているんです。お花鋏の世界では日本一と呼ばれる井上昭児(いのうえしょうじ)さんも師匠の一人。総火造り鍛造の基礎を学びなら、さらにいろんなものをつくれる自由鍛造の職人を目指している。自分たちでデザインして、新しいものづくりにチャレンジしていこうという姿勢でやってます」(小林氏)
いにしえより播州の地に根付いた鍛冶屋集団
兵庫県の播州地域における鍛冶屋産業は16世紀初頭にはすでに開始していた。1532年には、播磨で日本刀に用いられることで有名な玉鋼の先祖となる千種鋼(ちぐさはがね)が開発されており、その製造技術はここから各地へと伝わり、それが今日の刃物産地の位置関係に通じているとされているそうだ。
「言い伝えとしては、肥沃な加古川沿いに農業が発展して、ここで献上米も作っていた。そして、農民が冬場に野鍛冶をする職人集団が形成されていった。千三百年以上前のことです。時代は下って、豊臣秀吉が隣の三木城に攻め入った際に、連れてきた刀鍛冶と野鍛冶との交流があった。その時に一気に刃物鍛冶の技術が進んだ。実際、それまでもっと分厚く重たかった鎌が、その時代に一気に薄くなってるんですよ。しかも折れない。それは刀鍛冶の技術なんですね。現在でも小野市の鎌は、全国シェアナンバーワン。その他、鋏類やカミソリ類など、薄くて高度な技術のいる刃物は、このあたりの十八番なんです」(小林氏)
いまでこそ雄弁に地場産業を語る小林さんではあるが、実はデザイナーとしてこの分野に関わるまでは、「ここまで凄い技術が地元にあることを知らなかった」と苦笑する。表具屋の倅として生まれた小林さんは、高校時代から地域づくりに関心があり、デザインでその力になりたいと大阪芸術大学デザイン学科に進学。在学中からその能力を発揮し、卒業後は迷うことなく生まれ育った地元に戻って、2011年にデザイン事務所の合同会社シーラカンス食堂を設立した。「自分のクリエイティビティには絶対の自信があったから」と、もとより就職して回り道するのは頭になかったという。最初に頭角を現したのが、同じく小野市の地場産業である「播州そろばん」のデザイン開発。その評判を聞いた、小野金物卸商業協同組合から、2013年の初頭に「新しい刃物をデザインして欲しい」という依頼が来たのがきっかけだった。
「デザインする前にまずは現場を見ないと、と思って鍛接からできる水池さんのところに連れて行ってもらったのが衝撃やった。握り鋏って、軸がなくて唯一金具が使われていない鋏。単純に美しいと思ったし、メンテナンスをきちんとすればずっと使い続けられる。握り鋏と一言でいってもめっちゃ種類があって、『これ何用なんすか?』と興奮していると、『全部特注やで』と。総火造り鍛造ができる人には、全国から様々なオーダーが入る。刃物って、あらゆる物作りに必要不可欠な道具で、それらを通して日本全国のものづくりの生態系が見える気がした。生産性で決して妥協しない信念と、使う人のメンテナンスにまで心が及んでいる全て一環したデザインが、このサイズに全部ぎゅっと詰まっていることに驚いた。でも、こんなことができる人は一人しか残っていないということを知って、『これなくなったら、やばいやん』って純粋に思いました」(小林氏)
組合としても何かを変えたいとの思惑があってのデザイン依頼であったが、現場の職人さんのことを知るうちに、商品のデザインというよりは、価格面のことであったり、産地のしくみであったり、何より後継者問題を解決しないと、地場産業の未来が見えてこないことを実感した。
「職人さんたち自身も自分の腕に対しての圧倒的な自信は持っていても、それが残すべき伝統であるという誇りがないように感じました。後継者問題に触れても、『ああ、そんなん何十年も前に諦めたわ』みたいに言うてはって。そこでまず課題と感じたのが、この地域は刃物の一大産地なのに、地場産品を総称する呼び名がないという事実。『小野金物っていうけど、金物やなくて刃物やんな』と。そんな素朴な発想から、地域ブランドを定義づけるために付けた名称が、『播州刃物』。自分の使命は、その『播州刃物』をハイブランド化して価格と流通を変えることやと悟ったんです」(小林氏)
行動は速かった。その年4月に播州刃物ブランド案をビジュアル化して組合に提案。産地にいろんな刃物があるのにも関わらず、一同に会して見せることは今までされてこなかった。現場の誰もが想像だにしていなかった、播州刃物のビジュアルコミュニケーションにはみな圧倒され、6月にはそのイメージのまま東京で開催されたインテリアライフスタイル展に組合として出展。ブースを訪れた国内外のバイヤーから大きな反響を得たことで、小林さんが次に見据えたのは海外展開だった。価格も流通も長年固定されてきた国内で播州刃物をプロモーションするには制約が多すぎる。そのため、インテリアライフスタイル展で出会ったディストリビューターの仲立ちで、9月にパリのデザインウイークに出展。もともと技術もデザインも世界品質なのだから、世界で勝負するという狙いは間違いではなかった。
「以後、ドイツ、オランダ、オーストラリアと、毎年海外の展示会には必ず出展しているのですが、3年目からは、MUJUNというセレクトブランド名で出しています。組合としての出展は補助金頼みで、それがないと事業も終わってしまう。なんとかして継続するために他の地場産業の商品も揃えて、自分がリスクを背負って意地でも毎年出すと決めてます。いろんな御縁でMUJUNにつながった地場産品同士の助け合いの精神ですね(笑)」(小林氏)
MUJUN WORKSHOPで播州刃物を修得し、発展させる
海外出展で、一番大きく変わったのが職人さんの意識だという。播州刃物に魅せられて、弟子入り希望者が問い合わせをしてくるようになったからだ。水池さんのところに最初に来たのがイタリア人、次にアメリカ人。いずれも叶わなかったが、メディアで紹介されたそんな話を聞きつけて、2015年10月に寺崎研志さんが待望の弟子入りを果たした。そんな中、小林さんの意識を大きく変えたのが、もう一人の名人、井上昭児さんの入院だった。
「自分自身も弟子入りしたいと思いながら数年過ぎた頃、井上さんが腰を悪くしたというのでお見舞いに行ったのですが、『このまま復帰せえへんかったら、もうおしまいか』と感じた時にぞっとした。考え方変えんといかんなと痛感したんです。それまで、『継承することイコール弟子入り』という固定概念に縛られていたんですね。本気で考えて、『弟子入りせんでもやりたい人がいたら教えてくれるんですか?』って聞いたら、井上さんも水池さんも、『なんぼでもええよ』って言うてくれはったんで、MUJUN WORKSHOPを2018年7月に開設しました」(小林氏)
MUJUN WORKSHOPには、さまざまな問い合わせ者は訪れるが、就職感覚で来る人がほとんど。厳しい現実を知ると尻込みするのが大半だ。現在、本気の職人を目指している若手は、宮之原康詞さんと、山口小春さんの二人。宮之原さんは、元エンジニアで、地元から寄付してもらった機械を改良して工場を飛躍的に進化させた。一途な山口さんは、富士山ナイフの完成度を極限までに近づけた。総火造り鍛造の習得は、長い年月がかかる。彼らの食いぶちを早くつくらないと、技術を伝承する前に、工場が先に潰れてしまうという危機感からそのオリジナル商品は生まれた。
「海外からの視点で日本を見たときに、こんなナイフがあったらとデザインしました。職人を目指す中で、直接将来に役立つ技術といったら、やっぱり刃をつけるということ。焼き入れ、焼き戻しで鋼を硬くするのですが、ちょっと粘りを出すという職人技ならではの工程があって、刃を黒く燻すという技法も使う。富士山の尾根の表現は目きりという技術で、繊細さを要求される。黄金色の柄は、真鍮の板をプレスで抜いて、バリを取って刻印を入れる。均一な品質のナイフを大量に作るというのは、本当に難しいんですよ。道具を工夫したり、効率化を追求することによって、それらを実現するんです」(小林氏)
播州刃物を海外展開するなかで、小林さんは日本の流通の問題点も感じるという。海外の展示会に出すと、小売りの店主さんが直接来て毎回まとめて購入してくれるが、日本のバイヤーはパンレットを持ち帰るだけ。日本人も昔は、金物屋さんで鋏や包丁を買って、メンテナンスもそこでしていた。だから、売るだけではなくて生産者へのフィードバックがあり、それがまた職人の意識を高める循環になっていた。
「日本の刃物は、研ぎなら長く使うという文化。その『もったいない』の文化をちゃんと伝えないと、本当の意味で世界には流通していかないし、日本でも残らない」(小林氏)
そしていま、小林さんは、里山からの地場産業の再生に目を向けているという。
「いつまでも大都市経済中心型の経済に巻き込まれていたら、これから先の地場産業はなくなってしまう。本当に必要な地方経済をつくっていかないと、という発想からヒントを得たのが里山というワード。日本は、国土のほとんどが山林で、そこから各地域で生まれたのが地場産業、それが長く続いたのが伝統産業と呼ばれるもの。すべては里山暮らしに原点があるような気がしています。自然からいただいたものから、ものづくりをする。それが、単純で、美しいじゃないですか」(小林氏)
真っ黒になった無骨な手で打ち付ける鉄の姿は、それ自体が崇高で、誕生のエネルギーに満ちている。何よりも硬く、なおかつしなやかな鋼を、さらに叩き、削り、研く。職人の手によるその道具は、使い込まれるほどに馴染んで、人々の手と心に浸透していく。そんなものづくりの流れの一端に、MUJUN WORKSHOPで浸ってみてはいかがだろうか。
播州刃物の伝統技術を直接肌で感じたいと思ったアナタへ。
CRAFT LETTERでは、兵庫・播州刃物の産地にある工房で、あなたのためだけの時間をシーラカンス食堂の職人さんに作ってもらうことができます。その考え方、技法に触れ、ただ直接話すもよし、オリジナルの商品を相談することも可能な職人さんに出逢う旅にでてみませんか?