日常を彩る会津漆器。その豊かな伝統と、新たな挑戦を続ける職人の物語

400年近い歴史を誇る会津漆器。その技法に宿る「暮らしを支える美」を体感したいあなたへ。

    会津漆器と言えば、使い心地の良さと優美な絵付けなどが特徴の国指定の伝統的工芸品である。 

    お話を伺ったのは、証券会社勤務から一転、25歳の時に家業を継ぐため会津漆器の世界へ渡った漆芸職人・山内泰次氏(以下、山内氏)。

    「最初漆芸の道を志していたわけではなかった」という山内氏は、20代ではじめて漆の世界に入った後、6年間の修行期間を経て、自らの感性を活かした作品づくりをはじめている。当時としてはめずらしく自ら東京ドームの展示会へ足を運び、問屋を介さずに直接お客様に販売を行うなど、作り手と使い手を直接つなげる活動も産地のなかで誰よりも早くから行なっていた。

    山内氏が見つめる「会津漆器の今」と「伝統のこれから」について、じっくりお話を伺いました。

     

    証券会社から漆の世界へ、まずは6年の下積みから

     

    「母が亡くなってしまった時に、祖父と父の男二人だけになってしまって。兄もいたが、父は『どちらかには帰ってきてほしい』という思いが強くて。 結局、まだ身軽だった私が戻る、ということで会津へ帰りました」(山内氏)

    当時、山内氏は証券会社に勤めており、いずれは会津支店に転勤できるかもしれないという話しもあったが、最終的には家業の蒔絵を継ぐ形で地元に戻ることとなった。

    「父は学校の教員をしながら漆芸家という作家活動に力を入れていましたが、私はまず生活の糧になる仕事を覚えていなかったので、近くの蒔絵師さんのところへ25のとき弟子入りしたんです」 (山内氏)

    弟子時代は月々の給料はほとんどなく、正月や端午の節句に少し包みをもらえる程度だったとのこと。会津に戻る前に結婚が決まっていたものの、生活面は当時父母(あるいはお嫁さん)に助けられながら、6年間じっくり修行を積んだという。

     

     

    「修行期間の5年が過ぎた頃、下に新しい弟子が入ってきたこともあり、師匠へのお礼奉公としてもう1年、後輩の育成のため弟子として過ごしました。結果、6年間の修行になりましたね。31歳までです。修行を終えてからは、父とはちょっと別の問屋さんの仕事を請け負ったりして漆器を作っていました。その当時は、問屋さんがとっても元気でしたから、作ればすぐに売れていくという感じでした。ちょうどバブル期の名残もあって、とにかく在庫を作れ、という時代です。今から思えばありがたい時代でしたね」 (山内氏)

    当時の職人は数をつくることで、不思議と手がその作り方を覚えるという。当時の会津漆器は、特にお正月に向けての商品を多く作っており、松竹梅、鶴亀のデザインが多かったという。木地師さんは、1月から4月まで忙しく、塗り師は5月から10月が忙しかったとのこと。会津漆器は、戊辰戦争で産地として一度潰れてしまい、長くても塗り師は4代くらいしかないが、木地師は山奥に工房があったため被害は少なく10代以上続いている。木地師さんの苗字は、特に椋さんが多かったという。

     

    ものづくり産地が変わるなか、変えないものを決める

     

    高度経済成長の流れから合成樹脂や海外製品の台頭し、塗りは吹き付け、絵はスクリーン印刷による大量生産などが産地の中でも主流となる一方、山内氏は「木製、手塗り、手描き」 にこだわり物作りを続けている。

    「だんだん仕事が減る中で問屋さんにスクリーン印刷したら?、 プラスチックでもいいんじゃない?、とよく言われていましたが、私はどうしてもやりたくなかったですね。時代も変わり、問屋さんからの発注も減ってはきていたので、 自分でも売り先を見つけなければ……と考え始めるようになりました。そのうち、何人かの漆芸仲間と一緒に「自分たちで直接売る」という活動を始めました」(山内氏)

    30代後半から40代にかけて、仲間とともに東京の展示会(テーブルウェア等)へ出展を重ねていったという。一人では絶対できなかったが、仲間がいてくれたから続けられることができ、本当によかったとのこと。そして、直接対お客様に対面して販売するメリットが見えてきた。

    「私たちの品物は安くて、東京の展示会ではこれは本当の漆器ですか、ということをよく言われました。はじめは、言葉が訛ってないかなぁ、などいろいろ心配していました。お客さまと直接話しをする中で、漆器を使っていくうちに漆が剥げたり、欠けたりしてもすぐ直せるんですよ、と説明を丁寧にすることで、安心して買ってくれる方がだんだん増えてきたんです。 飾り物じゃない、日常でも使ってもらえる漆器を直接売るので、私たち作り手にとってはお客さまの反応が見えて一番嬉しいんです」(山内氏)

    30代後半から始めた東京での展示会出展など、産地から離れた直接お客様に会津漆器の魅力を30年間続けていく中で、これまでに1500人以上の名簿ができ、職人活動を支える基盤になったという。


    会津漆器の新しい形、麻紐を使った「乾漆」の技法

     

    山内氏は麻紐を使った「乾漆」という独自の作品づくりにも挑戦している。

    「ぐい呑をつくる時、本来なら木地屋さんに何十個と纏めて注文しないといけなくて、それだと融通が利かないことが多いんですね。なにかいい手がないかと思い、はじめは和紙を使っていたんですけど、なんかうすっぺらい感じがして、他にいい方法がないかなと思っていました。そんな時、麻紐などを使用して昔仏像を乾漆で作られていたことに気づいて、麻紐でぐい呑を作ってみようと思ったんです。いまは石膏型をつかって麻紐を巻いてかたちを作って、その後漆を何度も染み込ませて焼き付けるんですね。焼き付けることで、とても固いベースができるんです。ベースができたら、何度も塗り重ねては研ぎ、という工程を10回以上重ねていくことで、麻紐をベースにしたぐい呑みができるんです」(山内氏)

    乾漆の技術を活用して作られるぐい呑は、一つ一つが微妙に形の異なる一点物であり、落としても割れにくい。基本丸ものしかできないが、とても味のあるごつごつした風合いが特徴が魅力的である。


    伝統の先に紡ぐ会津漆器産地の未来

     

    「昔ながらの工房は、分業制で大量生産する仕組みが中心でした。でも現代は必要なものが様変わりしている。自分でアイデアを出し、素材を工夫し、手間ひま惜しまず作り続けることが生き残る道だと思います」 (山内氏)

    会津漆器は長い歴史をじっくりが、問屋の足取り不足や後継者難など、課題を山積みにしている。組合が運営する研修学校もあるが、2年間という短期間で漆芸の全てを学ぶのは正義、多くの卒業生がそのまま去っていく現状もあるという。

    「中には本当にやる気のある若い人もいるんです。でも、『問屋さんからの仕事で食べ続けて』という時代ではなくなりましたから、自分で売り先を見つける力が必要です。 実際に東京ドームなど全国のイベントに行ってみると、いろいろな新しい産地の人と交流ができ、学べることが多い。

    山内氏自身も、使ってこそ真価が発揮される漆器を、丁寧に、かつ自由な発想でひたすら続けるつもりだという。

    「正直、この先どうなるか分からない部分は多いです。でも、用意するだけじゃもったいないくらい、漆器は「暮らしの道具」として最高だと私は思ってる。自分の作品もどんどん使ってほしいし、もし「壊れたらいつでも直しますから」

    俺たちは問屋さんの仕事があったけど、これからは時代が違う。卒業生は200人くらいいるけど、もっと多くの人が職人という道になり、産地を盛り上げてほしい。

    問屋制度の先に、会津漆器産地、山中漆器というこだわりはなく、他産地の連携をもっと考えていく時代なのかもしれない。うちでできないことは、別の産地と助け合う時代なんじゃないかなという言葉

    山中、川連だと同じような作りをしている

    先人たちが守り続けてきた「漆文化」を絶やさないために。

    そして、手に取る人の毎日を少し豊かにするために。

    山内氏は今日も、会津の地で漆を塗り、筆を走らせている。

     

     

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